SSブログ

捨てる写真④ 私(2)弟が生まれるまで [古い記憶の整理]

s_yoshiko01.png
曾祖母といっしょ。

s_yoshiko07.png
祖母、母と。


s_3fm06.png
ぺんぺんと。

いずれも本屋さんの前で撮影していますが
お蕎麦屋さんを継ぐ人がいなかったので、お蕎麦屋をやめて本屋になりました。
本屋さんの所に、雑誌などの宣伝の旗が見えますが
この旗は布団を包む風呂敷として縫ってつなげてあり、
ずっと使っていました。

本屋さんには、場所柄、いわゆる「いかがわしい本」も置いていて
2丁目が近いことから、生物学的男性のゲイの方向けの雑誌などもありました。
今でいうゲイバーで働いている方は
昔は着流しにお化粧をしている人が多く
祖母が「シスターボーイと言うんだよ」と教えてくれました。
「シスターボーイ」というのは三輪明宏さんが出演された映画の中で演じた役から
漠然と、そいういう呼び名があったようです。

三輪明宏さんについては、
母は丸の内線で向かいに立ったことがあったそうで
「うっすらお化粧をしていて、ほんとうにきれいだった」
と、もう、何度も何度も死ぬまで言っていました。

私もデパートでちらりとお見掛けしたことがありますが
黄色い髪を隠しもせず、お洋服を選んでいらして
好感を持ちました。

また、団子さんもどこかのバーゲン会場ですれ違ったことがあるそうで
ついお辞儀をしたら、お辞儀してくれたそうで
「絶対にいい人」
と断言していました。

中学生になるくらいまでは、ほとんど毎日祖父母の家に行っていて
ここで夕飯を食べて、夜実家に帰る生活でした。
父はいつもいませんでした。
記憶の中で、祖母が言っていた
「よっちゃんはもう迎えに来ないから、帰った方がいい」
という言葉が耳の中に残っています。
きっとその頃から父は歌舞伎町で飲み歩いていたのでしょう。
泥酔して帰って来ることも多く、お酒にまつわるいくつかのエピソードを覚えています。

祖父母の家で夕飯を食べると、だいたい祖母と店番を代わっていたので
小学生の低学年の頃から大人の男性向けの雑誌の存在を知っていたし
買う人がいれば、袋に入れてお代をちょうだいしていました。
月刊紙の漫画はほとんど目を通していたし、
大人がいないところで、こっそり大人の漫画を見てみることもありました。
だたし、私はストーリー漫画は苦手で、全部に目を通してはいたけれど
覚えているのはギャク漫画ばかり。
特に赤塚不二夫さんの漫画は好きで、自分でも持っていました。
ストーリー漫画が読めるようになったのは大学生になってからです。

東海林さだおさんの漫画もよく読んでいましたが
私にとっては「大人のマンガ」だったので
大人に隠れて読んでいました。
研究所を辞めたあと勤めた編集プロダクションは
だいたい私より10歳くらい年上の文学畑の「オヤジ」の集まった職場だったのですが
この漫画全集がそろっていて、すごく懐かしくて読み漁りました。
子どもの頃はわからなかった「ペーソス」がわかったような気がしました。

大学時代、現在はもう廃刊となった「ぴあ」という雑誌で
アルバイトをしていたことがありますが
ぴあでは最初、大手の出版取次に反発をしていて
雑誌ができると、自分たちで直接書店まで「配本」することにしていました。
なので、本を置いてもらう本屋さんを自分たちで開拓していて
「販拡」と呼んでいました。
私はもちろん、祖父母の店にも置いてもらっていたのですが
配本の時、いつも、
「いやらしい本があるよね~」
とKDさんとかに言われていて、
だけど、それについては、いいとか悪いとか思ったことありません。
本当のことだからね。

新宿3丁目-1.png
新宿三丁目周辺の地図をアップしてみました。
左の小さい赤丸で囲んだのが、伊勢丹の東南の角、新宿三丁目の交差点。
右側の大きい丸、新宿五丁目東となっている交差点は、
上の写真の当時はまだありませんでした。
母が言うには、その周辺は戦後「青線」だったとのこと。
蕎麦湯は冷めにくいので、女郎屋さんの人が湯たんぽのお湯をもらいに来て
列になったということです。

明治通りから分岐して、この5丁目交差点までの道の上に
祖父母の実家はありました。
この道を作るために向かいに引っ越ししたのです。

この交差点の南西の角は、今は伊勢丹の駐車場になっていますが
私が小さい頃、ここに遊園地がありました。
母の実家の台所を開けると、すぐ遊園地だったから、
母の実家は現在ある道の右端(東側)にあったのですね。

そのあと、ゴルフ場になって、
そのあと、伊勢丹の発送所??みたいな所になって
そのあと、駐車場になって
その下がクイーンズシェフだった時もありました。

引っ越し当時、私は小学校の高学年くらいかな??
まだ都電が走っている道を、リヤカーで渡って家財道具を運びました。
引っ越し先は、この地図では「松屋」の印のある所です。

もともと祖父は土地は持っていなかったのです。
この新しい場所に4階建てのビルを建てました。
ビルの真ん中から右側の3階までが家になりました。
左側の4階までと、右側の4階は貸しビルになっていました。
祖父はエレベータを付けたことをものすごく自慢に思っていました。

祖父が亡くなったのはバブル末期くらいで、
地上権というものだけでも、相当なものになってしまったようですが
すぐに売れなかったので、母は相続税が払えず、破産??してしまいました。

すごく優しいおじいちゃんで、いつも白いタオルの鉢巻をしていて
六尺ふんどしでした。
お酒もたばこものみませんでした。
祖母、ぺんぺんは二人ともヘビースモーカーでした。

祖父のお兄さんはすごい入れ墨をしていた、と聞いたことがあります。
「おじちゃんは意気地がないから、痛いからやらなかったんだよ」
といつもぺんぺんに笑われていたけれど
それを部屋の隅で嫌な顔もせず聞いているような人でした。

これ、前に書いたような気もしますが、
孫がおじいちゃんを取り囲んで、
おもしろがって六尺ふんどしを引っ張って脱がしてしまうのです。

先代の林家三平が大好きで、
「あいつ、あんなことを言っていやがる」
と江戸弁で。「ひ」と「し」の区別ができませんでした。

パチンコが大好きで、勝った球を預けている??とかで
いつもお菓子が段ボールで届けられていました。

テレビのドラマなどで、お饅頭が出て来ると
「おい、見てごらん」
とテレビの横に立って
「テレビのお饅頭を出してやるよ」
と言って、隠していたお饅頭を出してくれました。

地下道が西口の小田急百貨店の方までつながった時、喜んで
「おい! 見にいくぞ!」
と、孫をぞろぞろ連れて、歩いて行きました。
ただ行って帰って来ただけでしたが[たらーっ(汗)]

新宿は山の手で、「田舎」だったため
祖母はいつも銀座を懐かしんで、新宿は田舎だ田舎だと言っていました。
母が小さい時、歌舞伎町は森だったそうです。
暗くてこわいから一人で行ってはいけない、と言われたようです。

昔の母の実家の辺りは、今は居住区ではありません。
住んでいた人はどかされませんでしたが、新しく人が住むことはできなくなりました。

今、フミコおばさんの家は新宿御苑の近く、
2丁目にも近いのですが
ここも最近は観光地化して来ていて、ホテルなども増え、
バーなどに観光バスが乗り入れて来ています。

ここもいずれ人が住めなくなるのでしょうか。

新宿の喧騒を嫌い、悪く言う人もいますが
もともと住んでいた人にとっては、やはりここは故郷です。

s_bspy02.png
ゆかたざらいか何かの写真です。
ぺんぺん、かっこいいです。
歌詞がわからなくなるといけないからか?
母が後ろに隠れて座っています[たらーっ(汗)]
この頃は、もう弟が生まれていたので、ここに入れる写真ではないのですが…。
私だけしか写ってないから、ま、いいか??

なんか、どんどん話が脱線し、
やたら長く書いてしまいました。
すみません。

(3)に続く





コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。