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気まぐれ番外編:狂人=>強靭、死人=>詩人 [精神と言葉]

最近、私は狂人=強靭になったのだな、とぼんやり思います。
その「強靭」というのは、私のこれまでの61年間の人生で、たぶん、最も強靭な精神になったということで、それは人とは比較できません。

これが、冗談ではなくて、誰から見ても狂人という状態のパニック期を数回繰り返して、今の状態になったので、正真正銘の狂人なのではないか? と思うけれど、でも、その定義というのははっきりしていないので、断定はできません。
医師の判断では『寛解』となっており、2回も閉鎖病棟に入ったのですが、そのどちらも『急性』という診断をいただいているので、精神的に切羽詰まると急性状態に陥りやすい精神構造をしているのだと思われます。
それは、対人によって複雑に現れる自分の精神バランスのくずれという感じがしています。

特に職場においては、人のやりとりとか、返答とか、行動とか、とにかく想像を絶するほど違う反応を経験することがあり、ある一人に対してさえ、私個人の感覚から見て、精神的に「すごい強い」と思う部分と、「え? そんなこと気にするんだ」と思わせるような弱い部分があって、それはもう、モザイクのように入り組んだ状態なので、何かで人と人とのバランスがくずれている時に、いったいどういう風に対処すればいいのか、予想したり、想像することは不可能です。
結局、その場の解決には「対処療法」しかないので、その場その場で、自分にとっての最善を尽くすように努力するしか方法がありません。
そして、自分の精神的な弱い部分は相変わらず弱いままのような気がします。自分の気持ちを殺してもできること、できないことが、これまたモザイクのように入り組んだ状態です。
でも、とにかく、対人に対して、考えてもしょうがないということが、真にわかったので、特に職場のような「やること」がはっきりしている場所では、やることに集中すれば、人との摩擦はほとんど気にしないでいられるようになったし、後を引いていつまでも考え続けるということも少なくなりました。

自分では、なんかわりに正常なような気がしています。
おかしいような気もするけど、何かの事柄に沿って物をまとめようとすると、わりにまともな物がまとめられるような気がします。だけど、それ自体が錯覚なのかもしれませんし、自分で「まとも」と言っちゃうあたり、おかしいのか? と思ったり、だいいち、こんなにやたらに書いたりまとめたりするんだから、やっぱりおかしいんじゃないの? と思ったりします。

今思い返すと、自分が「狂っていく」という状態の時は、「自我崩壊」「精神の死」に向かっていた! のだと思います。そしてその後、なんだか、悟りを開いたような状態になってしまい、もしかして、「(精神が)2度死んだのか?」と実感することが多く…。007をちゃんと読んだことはないのですが…、「007は二度死ぬ」というタイトルがある以上、もしかしたら、作家という人たちは物を書いてばかりいると、こういう精神状態を味わう傾向があるのかも? と思ったりして、イワン・フレミングもある時に2度死んだと実感したのかしら? と想像していました。
ウィキペディアによると、違うみたいですが…。)

私の場合、幼児期に自己肯定感の形成が弱い傾向にあったようで、成長するに従い「人と相対して、ときどき肯定できる部分がある」、という程度の弱い肯定感が積み重なって来たような気がします(これもモザイクみたいな感じなのかもしれません)。だから、この肯定感は絶対的なものではありませんでした。
が、世の中で人と接していると、ものすごく強い自己肯定感を持っておられる方もいらっしゃるように感じられます。自分と相対して見た場合、「絶対」と言えるほどの自信をもって物事を「言い切る」場面に遭遇することがよくあります。それは、私のようなモザイク自己肯定の、いわゆる「あまり自信が持てない」人間にとっては、ある時にはすごく心強く感じられるし、魅力のあることなのですよね。もちろん内容によってはそう思えないこともありますし、引いちゃうこともありますが。
そういう、強く言い切きることができる人はもともと精神が強靭だったように見えます。そういう人と30年以上付き合って来て、なんかぶつかって行けるような錯覚に陥り、ぶつかって行った結果、自分が壊れ、そして、その後、これまでで一番強い自己肯定感を得ることができたような気がします。

「自我崩壊」について知りたくて、岩波明著、「自我崩壊」という本を読みました。
が、この本は精神科医である著者が対面した患者さん、個々人の具体例が書かれており、結局「自我崩壊」ということについての、言語化した、納得できる定義は得られませんでした。
でも、とにかく私は最初に入院した時には、自分のことが誰だかわからなくなってしまったので、文字通りの「自我崩壊」があったのだと思われます。

そして、その2回の「自我崩壊」後、現在、どうやら死人=詩人になっちゃったみたいなのです。

もうこうなると、語呂合わせ、言葉遊びの世界です。笑えます。でも、わりに真剣にそう思っているしだいです。
2度目の入院の時には本当に、これまた30年以上付き合っていた友達との間での言葉の使い方があまりに違いすぎ、混乱してしまって頭がおかしくなったのです。私に突き刺さって来た言葉は、主に私自身に対する責めの言葉でした。そのあと、混乱を整理していく過程で、どういうわけか言葉が自分にとってわかりやすくなり、また、人の言っていることがわからなかったり、自分が言っていることが人に伝わらなくても、わかってもらうことが切実だったり、重要な場面でなければ、そんなに気にならなくなりました。
良かったです。
結果オーライ。

これからは気をつけようとは思っているのですが、常に未知の対人関係が待っており、何年付き合っていた人だったとしても、相手にも変化があっただろうし、自分にも変化があった以上、対面した時にはいつも新たな摩擦が起こる可能性があります。だから何も想定、予想できません。
誰かと会い、いつでもその未知の変化を楽しめるように、さらに心を強くしていきたいと思います。

おしまい。


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気まぐれ番外編:パワハラ連鎖 [精神と言葉]

パワーハラスメントとは、本当に厄介なものです。
それは、頭ごなしに対人の存在を否定する力なのだと思います。
その対象となる人をつぶすまで追い詰めないと、気が済まないような、怒り、嫉み、憤りなどを含んでいるものなのでしょう。
その理不尽な力で否定された人は、思考回路や感情の整理、記憶の整理に歪みを起こすのかもしれません。そして、受けた怒りを解決できないまま、持っているしかないのかもしれません。
若い頃にその回路に歪みを持ってしまった人は、その後、何かの解決をする時、思考する時にストレスがかかるようになるのではないかと感じています。
それが、トラウマとか、呼ばれるものなのかもしれませんが。

組織(家庭も含む)や企業内では常に人と人とのやりとりで摩擦が起こっていて、それがパワハラという形に育って行く場合があるような気がします。
そのパワハラ行使者が上司や年配者や権力者であった場合、それはかなり悪質です。
その人は『仕事』や『善意』という隠れ蓑をかぶって、自分の嫌悪を堂々と『怒り』の形で特定の個人に発散します。
仕事の失敗などは明らかな間違いなので、その機会を逃さず、嫌悪パワーを炸裂させます。
歪みを受けた人が、その歪みをすぐに他の物に変換できる場合は、たぶん、その場は問題なく過ぎるのでしょう。
また、受けた人が、その組織での自分の場所を守る方が大事な場合は、無視するか、受け流してうまくたち振る舞うしかありません。それを目撃した人も同様だと思います。
そのパワハラをもろに受けて精神に障害が残った場合、それを告発すると、組織自体のバランスを崩す事もあるだろうから、その組織につながる人の関係を考慮した場合、慎重にならざるを得ないし、だいいち、その因果関係を正しく証明、説明できるかどうかはかなり難しい問題となるように思います。
説明しても、受け入れてもらえない場合だってあるだろうし、特定の個人を正面切って否定するにはかなりのストレスもかかると思われます。
とにかく、そのパワハラ行使者は、人を歪めるのです。

友達のNちゃんが遭遇したのは、アカハラでしたが、20代の始めくらいだったから、まだそういう概念はありませんでした。
今、想像してみると、かなりきつかったのだろうと思います。
かなりひどい目に遭ったようでしたが、私はその当時、助ける事もできなかったし、知識もなかったので、対処方法を一緒に考える事もできませんでした。

きっと、Nちゃんの記憶の中には、そのできごとを通して解決できなかった怒りも残っているのだろうと、最近、思うようになりました。

怒りって、なんか、記憶の中にあるほかの怒りも呼び覚ますところがあるような気がします。
Nちゃんと文通していた時、たぶん、Nちゃんには悪気はなく、善意だけがあったのだろうとは思いますが、私の行動を諭すような、批判するような言動が重なり、それが過去に私が示した好意についての批判にも及んだので、私は不快に思いながらも、友達だと思う気安さから自分の思うとおりに返事を書いたのです。そうしたら、それがNちゃんの怒りを引き出してしまったようなのです。
その怒りをぶつけられて、今度はこちらが混乱してしまい、自分の怒りを誘発し、Nちゃんにそれをぶつけてしまいました。
つまり、これはケンカだったと思いますが、ケンカと気がつくまでに数日かかりました。
そして、このケンカがあったから、その前に急性精神病を引き起こした他の友達とのやりとりがケンカだったのだと気が付いたのです。

今の若い人は、『偽善』というものに、敏感なような気がします。
もしかしたら、昔は私もそうだったのかもしれませんが…? いつごろからか、私は、『善悪』という判断自体に疑問を持つようになりました。
それは、たぶん、その人ごと、その時ごと、場面ごとの定義だけの問題なのだと思います。
結局自分を動かし、判断の基準になるのは好き嫌いじゃないかと思います。
嫌いな物、事、行動、言動、人には嫌悪感が働くのです。
それは、私の場合、『怒り』を感じた記憶につながる『何か』なのです。『何か』って? その時に受けた言葉、情景、感覚なのかな? まず瞬間的に嫌悪感が起こり、それを排除しようと怒りのスイッチが入るような気がします。
この嫌悪感について、ちゃんと説明するのは不可能です。
それは自分の経験を通して、積み重なっているもの、としか言いようがありません。
以前、嫌いな言葉について書いたのですが、私の嫌悪の根源は、たぶん父の存在にあるのだろうと思いますが、それについては父が亡くなった時に整理がついているような感じがします。そして、その判断基準の上に、新たな基準が積み重なり、もっと複雑になっている感じがします。
それは、あらゆる状況で常に「それを受け入れていいかどうか」を探っている自分の思考のツボのような部分です。

そういう嫌悪感が生まれた場合、それを起こすものを排除するかどうかは、その人の自由だと思います。
だけど、社会とか組織の中でその排除がどのように働くのかは、かなり複雑で難しい問題になるのだろうと思います。単に不快として表現するだけならいいのですが、人に嫌な顔を見せる時にも、けっこうストレスがかかる場合があります。だから普通はその一瞬はこらえて、がまんすると思うのですが、ある人はその排除を『パワハラ』という形で表出するのだろうと思われます。

私には対人恐怖がありますが、それでも特定の個人に好感を抱くことがあり、また、個人が苦しんだり頑張ったりしている場合は、ねぎらいたい、応援したい、という気持ちが生まれます。
そして、気が向いて、きっかけがあればそれを表現し、行動したくなることがあります。
人がストレスをため込んで苦しんでいる様子は、見ていてわかるし、自分も苦しめられるから、少しでもそれを緩和したいと思っただけだったのですが。それは、今考えれば、ある意味傲慢な考えだったのかもしれません。
そういう行為をした時に得られる快感が想像できたから、やったことなのだと思います。
だから、受ける人にはそれが『偽善』と捉えられることもあるのでしょう。
好意の押し売りは、ある時には『余計なお世話』になるだろうし、ハラスメントと捉えられることもあるでしょうから。
その善悪の判断は、個人の成長と経験を通して、思考が言語として蓄積されて行く過程で築かれていく、個人の領域であり、自分の聖域なのだろうと思います。たぶん、ここが嫌悪をより分け行動に移す場所です。
たぶんだれでもそこを曲げてまで人に媚びたり、機嫌を取ったりすることはできないのかもしれませんし、曲げなければ曲げないことでストレスは生まれるし、曲げた方が楽だった場合でも、何らかのストレスはどこかに残っているような気がします。

自分のことを考えると、物事を受け入れる入り口はかなり広いと思うのですが、その核の部分が意外に強固だったので、自分が壊れたような気がします。
でも、それは壊れたように見えて、今、再生されているようです。
もう壊したくないので、ここに侵入しようとする人は排除せざるを得ません。
そこに侵入する行為は私にとってのパワハラです。でも、そのパワハラはパワハラの悪連鎖で起こっているようだったから、その背景を理解しようとして、苦しみました。
なるべくなら、直接接点のできる個人の存在自体を否定したくないし、嫌悪もしたくなかったけど、結果的に否定してしまうことになったようで、それが心の咎になっています。
でも、しょうがないです。

善意を善意として素直に気持ちよく受け取ってくれない人とは、うまくやれません。
疑うのはその人の勝手です。
そこは私の踏み込めない、相手の聖域だと思います。
それがかみ合うか、どこまで妥協できるのかというのが『相性』ということなのかもしれません。

不特定多数の他人がいる場所で、苦しみや辛さを身体から発散させることができるということは、つまりは自分の方が痛い、自分の方が苦しいという思い込みだと思いますが、そういう体感は相対的に表す方法がないから、人と比べられません。
でももしかしたら、それを公の場で出すことができるということが、すなわち、個人の抱える深刻さの度合いと考える事はできるのかもしれません。
それができる人は世界一不幸な人です。
でも、それは「one of the most unfortunate parson」ということで、最も不幸な人のうちの一人なのだと思います。だから、自分が最も不幸だと思っている人はきっとたくさんいるのでしょう。
でも、対人にそれが降りかかり、ハラスメントになるかもしれないという想像をせずに発揮できるのなら、もしかしたら、世界で一番幸福な人なのかもしれません。
それは本人の体感、思考ですから、発想の転換が起こらなければ、そのまま抱えているしかないのかもしれません。

自分のパワーは、なるべく人を傷つけない方向に変換、発揮できればいいのですが、他人というのは、想像を絶するほど違う思考経路を持っている人なので、まったく想定外の反応が返ってきて、思わぬ方向に進行するのですよね。
それが人付き合いのおもしろいところだろうとも思いますが、そこで「おもしろい」を共有できないのなら、やっぱり相性が悪いということになるのでしょう。
パワーを発揮するなら、ハラスメントにならないパワーにしたいけれど、その個人が私に向けた力もハラスメントになっていて、それを排除しようとした私のパワーもハラスメントになってしまったのかもしれません。
この場合、ケンカには発展しませんでしたが、後味の悪さが残りました。
ほんと、悪循環。
まったく難しい問題です。

昨日、私に不快を与えたその人は、お菓子を持って、あやまりに来てくれました。私はそれを受け取りました。
その人の精いっぱいの誠意を感じました。
でも、一緒にまた個人的な時間を共有しようという気になれるどうか…、わかりません。
その人の幸せを心から祈っています。これは本当の気持ちです。
その人はとても聡明な人です。でも思春期にいじめを受け、ものすごく辛い目にあったみたいなので、理不尽に怒られるとその時の記憶が蘇ってしまうみたいで、そこでパニックになるようです。そして、仕事に気が入らなくなり、集中も難しくなるような感じがします。それがまた新たな失敗を生むのでしょう。
私はその部屋でパワハラを行使する上司の理不尽さに怒っています。そのパワハラ人は「アンガーマネンジメント講座」も受けに来ていました。だから、自分のパワハラ癖について自覚があるのかもしれません。
一時、私が告発したほうがいいのか、迷いました。私はその組織内で失うものもなく、また、たぶん、私は疎外されません。でも、当事者でないのですから、もうこれ以上余計なおせっかいはしない方がいいと思いましたし、たぶん、パワハラを受けているその人は聡明な人だから、ご自身で対応できると思います。
今までにすでに歪んでしまっている思考経路、精神構造がそれを難しくしているのかもしれません。
でも、来年度働き続ける意思表示もされたようです。そこまでのストレス受け、ためていても、そこで働こうと思う気持ちは立派だと思いました。
私にはできないことです。
精神力って、人によってすごく違うところで発揮されるんだな、と感じます。

難しく考えて、バカみたいだと思いますが、難しく考えたいのです。
自分の行為を肯定して、自分を慰めたいのです。
自分が楽になりたいのです。
その過程でかかわった人が楽になるかどうかまでは責任持てないし、自分の思考領域を超えているから、考えられません。
その人の経験や思考を共有するなんて不可能だから、できるわけないです。
私は苦しみたくないし、ストレスをため込めないのです。
『自分勝手』と非難されるなら、『そうですよ』としか言いようがありません。

説明欲とは、結局は自己満足を得るという結果が欲しいというだけで、単なる言い訳ですが、
自己だけでも満足させられれば御の字です。
おかげさまで、ぜんぜん傷つかなくなりました。
ただちょっぴり、悲しく、残念に思っています。少し心が痛いです。
そして、すっきりするまでにはまだ時間が必要です。職場が少し憂鬱な場所になりました。
それは、そのやりとりのあった相手と、パワハラ人とも、まだこの先対面する可能性があるからです。
でもまあ、きっと会ってしまえばどうということはないのだろうと思います。

ただの屁理屈婆になりました。
感謝。



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気まぐれ番外編:レ・ミゼラブル [精神と言葉]

幸せって、究極のご都合主義的思考を手に入れるってことなのかな?
最近、もう本当に、超ご都合主義になっちゃって、
ほとんどのことはど~~~でもよくて、
とにかく死ぬまでになんとか、自分で考えられる範囲で人に迷惑かけないでいこ~~って思うだけになってます。

最近、国の主導者がおマヌケに見えてしまって、なんかミゼラブル~~。
でも、そのマ~さんって、マ~さんなりに幸せの追及してるんだよね、たぶん。
国の主導者って、会社の社長っていうのと似ているのか????
だけど、かのお方は中小企業の社長さんという感じではない。
自分で汗水たらしてお金を稼ぐ算段をどうにか模索してるって感じはしない。
私にはただの「いいとこのぼんぼん」って風に見える。
お育ちが良い、人の良さみたいなものは感じられる気がする。
佐藤優氏の「ポエム体質」っていう分析が言い得て妙で、受けた。
マ~さんは、迷いがないほど精神が強く見えるかっていうと、そうでもない。
ご自分でご自分に何かスペルマジックしてらっしゃるみたいに見えます。
政治の問題は政治家に解決してもらわなきゃしょうがないと思うし、そのために税金を払っているのだと思う。
だけど、その政治の中枢は金で根腐れ起こしちゃっていて、ぐちゃぐちゃ。その取り巻きの中でなんか勝手に輝いちゃって? る? 女性の方の発言、参拝パフォーマンスには、ただただびっくらこいた。理解不能な世界です。男と女以上の暗くて深い溝を感じざるを得ませんでした。
思考的乖離とでも申しましょうか。

レ・ミゼラブルで、ジャンバルジャンはものすごい波乱万丈なドラマドラマな生涯を生き、コゼットという、かけがえのない存在を得た。
コゼットとは娘の象徴であり、自分が自分の命をかけて守りたいという物の象徴だと思う。
(「物」、って書いたのは、世の中見てると、どうやら「人」でなくても良さそうな感じだから)
で、ヴィクトル・ユーゴーがどういう人にコゼットを託したかったかっていうと、「成人後困窮生活を経て、一時反体制として政治改革に目覚め失敗したいいとこのぼんぼん」。マリユス。
映画の「レ・ミゼラブル」の中で、私の心が寄り添っていたのは、テナルディエ家の娘、エポニーヌ。
映画の中では彼女が絶望の中で亡くなってしまったので、私も絶望してしまいました。
つまり、これがヴィクトル・ユーゴーが描くところの「世の中」「人生」、ってことでは、確かにすごくミゼラブルな気分にさせてくれる映画でした。

絶望っていうのは、もしかしたら、絶命に近い感覚を生むのかもしれない。だけど、山ほど絶望したって、絶命できないこともあるのだ。
ま、しょ~がないよね~。人生「いろいろあるから」ってことなんだろうね? だけど国の中心での腐った物が目に入ってきて、耳に入ってくるから、絶望を通り越して、ヤケクソになるしかない。

売国とか言うけど、精神論みたいなものは下らなすぎる。
結局、国ってただの場所だし、そこに帰属していたいかいたくないかは本人の自由。
お金をたんまり稼いでも、この国の政治に金をつぎ込みたくない、つまり税金を払いたくない人は、国外に行く。お金さえあれば住む場所は自由に選べる。
私がなぜこの国にいるかっていえば、ただここに生まれたから。もちろん「好き」だし、好きでい続けたい。何にも阻害されず、自分が自分のままでどうにかやっていける場所であり続けてくれることを祈るしかない。
それに外国のお友だちの娘がこの国に興味を持って、そして実際この国で何かしようって思ってくれているという現実は、素直にうれしい。だから、少なくともその娘が愛想つかさないように、少しでもいい国であって欲しいと切に思う。
でも目に見える「この国」、耳に聞こえてくる「この国」がどうしようもなく居づらい場所になったとしたら逃げたい。まあ、金がないからそう簡単に逃亡もできないけど、行動できるかどうかは、あとは切実さと金との優先順位によると思う。

かのマ~さん、どこまで走って行く気なのかしら。
自由で民主的と名乗っているわりと強固な「界」においては、いろいろな方面からマ~さんを守り、言論をどうにか統制しようとしていることは、そこかしこで目に見えてきている。その外側でそれが見えてしまって危機感を覚える方は、それぞれの場で発言はしていらっしゃる。
だけど、がんばってラジオで発言しても、「目に見える場所」では「太鼓持ち」にならざるを得ない人も出て来ているみたいだ。げ~の~って、言葉のひびきが汚いけど、その「界」を守るためには、それを動かしているさらに大きい上の「界」にはひとまず飲み込まれなければならないってこのなのだろうと思う。発言者は自分で築いてしまった組織に続く個人の「生活」を守ったってことかね?
さらにその下の下の「界」があり、アリさん階級にいる私から見えるこの発言者の姿は、なんか、ミゼラブルだった。
とほほ。気の毒。
これも、目くらましの一つの方法ではあったのだろう。

まあどうでもいい。
結局、人は超個人となり、超ご都合主義的な考えになるしかない。
そうなれないと、何かでバランスをくずし、統合失調を起こした時に、低迷期から抜けられなくなってしまうのではないだろうか。
そのどこかの時点で何かの基準から「狂っている」と見なされれば、病院に放り込まれる。超個人の中で世間一般との基準が狂い、その狂いが発散されることなく、個人の中で育ってしまうと、何かのきっかけでとんでもない行動を起こしかねない。
はい、起こしたのは私です。
個人対個人レベルのこととはいえ、私の起こした行動=「けんかを売る」ということはテロに通じるものがあったな、と反省しています。
今ほぼ普通の生活を送れていることを、本当に幸せに思っています。
どうぞこのままこの平穏が続きますように。

ああ、ミゼラブル。。。。。。。
人生パラド~~ックス。。。。。。




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気まぐれ番外編:「生き」「抜く」 [精神と言葉]

 「抜く」って言葉だけを使うと、ちょっと下品な感じがするけど、これってつまりは生きる衝動とその発散のことで、それが快楽の原点という気がする。
 カルガモの求愛行為を見ていると、リズム合わせのような感じで、カップルがうなずきあって、お互いに高まるリズムを確認し合っているように見える。途中でリズムが狂うとまたやりなおしだ。そして、「抜く」行為は一瞬の出来事だ。
カルガモの一羽ずつがどう違うのかを認識できないから、その行為のあったカップル同士がその後どうしているかを確かめることはできないのだけれど、でも、行為の直後はお互いすごくシラっとしていて、もうすっかり赤の他人って感じだ。
 かなりあっさりしている。
 でも、結局、生きるってそういうことなのじゃないかと思うのだ。
 その「抜く」一瞬のために生きているだけなのだ。そして、「抜いた」結果子どもが生まれる時もあるってだけなのだ。そして、あとは食べて糞して死ぬだけだ。
 どうにか「抜く」ためにいろいろ努力をするってことが生きるということみたいだ。
 人間って思考が発達しすぎちゃって、リズム合わせ自体が難しくなってしまったのかもしれない。だからリズムなんか関係なしにただ「抜く」職業ってのが発達してて、それは快楽の根源を支えているから無くならない。
快楽指数というものがあったとすると、たぶん、多くの男性にとっては「抜く」ことが快楽指数満点って感じなのではないのか?と想像している。いつも快楽指数満点だったらその方がいいのかもしれないけれど、そう簡単にいつでもできるわけではない。でも、それを得たいという衝動が生きる動機づけになるのかな?
「多くの」と書いたのは、「抜く」行為の前にまず「抜く」状態にならなければならないんだけど、思考(精神の成り立ち?)が邪魔して、「リズム合わせ」の前にまず「抜く」状態になるってことが難しくなっちゃっているんだろうな、って感じがするからだ。

 女性の場合はちょっと複雑で、まず受けるところから始まるし、リズム合わせによっては必ずしもすっきり抜けた感じにはならないから、その辺どうしてもまわりくどくなってくる。でも、それは結局は、抜ける状態になることが難しいってことで、そんなの個人の成り立ちによって違うに決まっているから、考え切れない。女性だってリズム合わせが合ったあとにちゃんと抜ければ、快楽指数満点だろうさ。でもそれはお互い、一瞬のできごとだ。

 そういう「生きるための」快楽を得るツボが、脳の報酬系って呼ばれるところなのかな。快楽指数はいつも満点を得なくてもたぶん生きてはいける。でも、快楽指数が大きかった体験は記憶に残っていて、またその快楽を得たいという思いが生きて行くという動機づけになるのだろうな。こんなこと、わかりきっていることかもしれないけど。
たぶん、細かい快楽指数を積み重ねていくことができれればいいのだろうし、それが、なるたけ衝動の原点に近い快楽だとけっこう、お安く発散できるんじゃないか? って気がする。

 精神とは、「抜く」ことが形骸化することに伴い、衝動を発散するまでに伴う違和感をストレスとして抱えず、思考を持ってそれを解決しようとする試み、って感じがする。本来「抜く」のには相手が必要だったろう。その相手とは理想としては別性で、番になる相手ということになるのだろうけれど、今の世の中そんなに簡単に相性バッチリの相手を見つけられないし、見つかったと思っても一緒に暮らすうちに何かがズレてくる。たぶん昔からそうだったのだろうけれど、昔はマニュアルこそなかったけれど、型通りの夫婦という「神話」に近い形が強固にあったから、そのイメージを守ろうとする意志を強く持っていられたのかもしれない。
 その型を信じることができて、それを守ろうとすることで生き切れればそれで問題はないのだと思う。でも神代の昔から型通りにできない人は常にいて(まあ、あたりまえっちゃあ、あたりまえ?)、そういう人の精神は大きく揺らいでしまうから、「揺らぎ」でたまる鬱屈を抜くために、芸術なり文学なりに逃げ?あるいは信じ、それを自分の精神の防波堤として、その中で昇華する=抜ききるという願望、を叶えてきたのかしら?

 社会的に独立して生きて行くことって、ほんと、大変なことだな、と実感している。特に経済的に独立するということは至難の業だ。
現在、私が金を得るために売るものは「時間」しかない。もうすこし若かったら「春」も売れたのかな? でもそれを「売るもの」と認識したことはなかった。今から売れる?まあ、無理だろう。旬を過ぎてしまっているし、もう使い果たしてしまっている感じだ。
 それに「対人恐怖」があるので、行きずりの人とそういう行為をすることも無理だと思う。
 とりあえず、私の時給というものが、私の社会的価値だと考えていいだろうか?
 大した学校も出ていないし、なんの資格も才能も持っていないことを考えたら、今もらっている時給は自分にとっては充分すぎる評価だと思っている。だけど1年毎の契約を続けなければならず、その関係は不安定だし、一般的な生活水準を考えたら、けっこうギリギリな感じだ。ただ幸い、いい年して一人暮らしを始めたおかげで、だいぶ割り切っていろいろ切り詰めることができる。ガス、水道、電気などを使いすぎるのが怖いし、新聞も取っていないし、テレビも持っていない。固定電話もなく、1000円カットで髪を切っている。これから死ぬまでの間に、なんとか一人でやっていけるようにと思うと、自然に節約ができるようになった。
 自分の身の丈に合った生活しかできないから、それで行動できる範囲、消費にいくらかけられるかが決まってくる。

 個人の価値っていったい何なんだろうとこのごろよく考える。
 それは自分自身と自分と接点のある他人(家族も含めた自分以外の人という意味)との関係でしか実感できないものなのだと思う。
 自分が存在を知っている著名人も、知っているということでは接点になる。面識があるわけじゃないけれど、誰かが何かをしたということでニュースにでもなれば、それに共感したり、げんなりしたり、悲しくなったり、喜べたり笑えたりする。それがとりあえずの明日を生きる活力になることもある。だから実際に会えるというアイドルとの関係はもっと接点を強くするのだろう。
 リアルな隣人とうまくやって行けなくても、テレビの中の接点のある他人を見て笑ったり泣いたりしてそこそこ抜ければ、それはそれでいいと思う。

 国にとっての私の価値って何か? と考えると、まあ税金を払っているという意味では、私は働きアリさん一匹くらいの価値はあるのかしらね? そのアリさん一匹の価値を国に守ってもらえている? それって「基本的人権」ってやつ????
うむわからない。
「国」と考えると、まず政治家個人の顔が浮かぶ。あの人たちが私を守ってくれるだろうか? と考えると、とてもそうとは思えない。
世界に顔を晒していて、行動や言葉も丸見えなのに、不謹慎なんじゃないか? ってような発言をわりと平気でする人たちが多いよね? そこに人一人の命がかかった時に、自分の命を代償にして守ってくれるっていう人の顔は思い当らない。
 だいいち、政治家の仕事って何なの?
 エンターティンメントなの? 
 コピーライターかよ! って感じで言葉遊びをしていて、政策に修飾語を入れてみたり、妙な新語を作ってみたりして、目くらまし作戦かよ! って思う。
 何か新たに解決する問題が発生して議論することが必要になった時には、その議論のための「有識者」と言う人を集めて来なければ考えが出て来ないみたいだし、政治家だけの討論の場では、いつもお金のばらまき方や集め方のことばかりが問題になっているようで、ワインがどうたら、うちわがどうたらテレビでやっていて、だいたいが私利私欲と「公」の意味がわかっていない? っていう問題で突っつきあっていて、泣いたり怒ったりして、それがお笑いやコント番組じゃあないのだからちょっとうんざりしてしまう。シャレになんね~よ、って思う。で、責任問題に発展すれば、追及された個人の罪はだいたいはその個人が雇っている秘書って人が背負うことになるんだけど、じゃあ秘書のほうが決定権があるんですか? いつもわからない。この場合の自己責任の自己って誰? ライオン丸に聞きたい。
公の場で言葉尻だけを比べ、追及してどうしようっていうのだろうか。
 そういうもろもろは、私の考えるところの「仕事」には当たらないような気がするので、もし自分の払った税金の使い途を指定できるのなら、せめて私が払った税金はあの人たちにはあげたくないな、って思っている。せめて国会議事堂の中のお掃除をしている人の時給を上げて欲しいな。
私にとってはそういう人の方が価値ある人に思えるから。

 政治家の人に言いたいのは、国民のやる気を削がないように気をつけて欲しいってこと。
彼らはきっとアリさん一匹を守る気なんかないよ。それは確信できる。政治家に直に近づいてすねでもかじろうとしたら、一瞬で踏み潰されるだろう。たくさんのアリを振りはらっても、自分は良い所に住んで、良い生活をして、偉い人になっていたい人達の集まりに見える。
おめ~らのために働いているんじゃないよ、って思う。ほんとに。
 たぶん、生活は通り越しちゃって、壮大な宇宙的な気もちになっておられて、アリさんのことは見えないんだ。たぶん、神様のように国民を守る大きな自分像がおありになるんでしょう。きっとすごくいい人なんだと思うし、恵まれた家庭に育ち、ご自分も恵まれた家庭を持ちそれを守っておられる立派なお父さん、お母さん、息子、娘なのでしょう。
首相様に言いたいのは、政治家の筆頭として世に名前が出た時点でもう歴史に名前は残りましたから、一応夢をかなえたってことで、いいんじゃないでしょうか? ってこと。
 細かいことは大目に見ます。だけど、とにかく戦争だけはしないで下さい。
 キーワードだけで気まぐれに発言したような意味不明なことも現実になったことを考えると、なにか勢いづいちゃって動かしかねないし、周りは動いちゃう。目に焦点合ってないみたいだし、公の場での行動や発言がおかしい部分が見えてしまうので、どうぞ日本と言う船を船ごとどっかにぶっつけないで下さい。なんだかわからないけど、あなたの個人的な達成欲を国民を道連れに果たすようなことはしないで下さい。
 少なくとも私個人はあなたと一緒にクラッシュしたくないな、って思っています。
 まあ、ご自分の命もかかっていることだから、少しはとどまってくれるかしら? でも信用はできないよね。
 歴史歴史って言うけど、もうそんなの関係ないよ。
 言葉尻で自尊心を攻撃し合っているという現実を見たら、「歴史」として切り離して遠目に見て考えられるほどには、時間的な乖離がされてないってことなんじゃないの?????? ここはひとつ、もう割り切って、かの戦争で自尊心を傷つられておられ、まだ怒っておられる個人の方に、とりあえず土下座でもしてあやまったらどうなんでしょうか。だって、現実に、かの戦争という失敗から続いている現実なんですから。
経済事情が行き詰っているのは、どこも同じなんですから、身の丈にあった支出をして欲しいです。
 国内の個々人と政治の乖離が大きくなるほうが、こわいと思います。

 職業としての軍人ができてしまっている以上、戦場は無くせないのだろう。今、現実に戦地がある以上、そこを無視していられないのが人なのだろう。それに戦地では生きるという実感がより切実だからこそ、その反動で得られる充実感は日常で得られるものより大きいのではないかと想像してしまう。戦場と日常のギャップが大きいことが、生きる価値観に大きな揺らぎを起こすのかもしれない。その揺らぎは自分の精神の揺らぎを起こす。その揺らぎが問題意識を生んで、物語を生む。ニュースとして見ることができて、実際に戦地に行く人を送り出している国では、接点はもっとはっきりしているのだろう。
 でも、戦場はアミューズメントパークじゃないし、物語を生むための場所ではないのだ。自分につながる命をそこに送り出したくはない、とどうしても思ってしまう。
 そういうことは、今、ある程度豊かで恵まれているからこそ、俯瞰して見ることができるのだ。
 「アメリカン・スナイパー」という映画の中で、主人公の父親が言う。「人間は、羊か番犬か狼かの3種類しかない」と。そういう意味では私は間違いなく羊だ。だけど、子どもや自分に続く命を守るためには番犬にも狼にもなれると思う。ただし、ずっとそれを維持していられるわけではないし、なるべくなりたくない。矢面に立たされ、責められるということになればの話だ。そんな所に立ちたくはないしそこまで追い詰められたくない。だから、どうぞ立たせないで下さい、とお願いしたい。

 人間が作り出したもので意味があるものってあったのかしら?
 それは、食べる物と、個々人が生きるための動機づけを得る、「抜く」ことの亜種としてあるものなのだろうな。自分の意志でそれを選べるっていう自由を、ありがたく思うし、ありがたく思わなくちゃいけないと思う。

 生得的なことにたよらず、うまく「生き」「抜く」ということを人は考え続けていて、これからも考え続けるのだろう。生きるために脳があるのだから、生まれてしまったらしょうがない。生まれた時点で、生きるというパラドックスに巻き込まれてしまったのだ。
 
 人を攻撃したり、殺したりすることで「抜ける」人を育ててはいけないと思うし、そういう実感が生まれない世の中になって欲しい。
 無理?
 まあ、生きていると、対人関係においては山のような絶望に出会うから、個々人レベルで無理なことは無理なんでしょうね。個々人の精神の歪みが、どこで、どのように発揮されるかという問題って気がする。でも間違いなく自分自身の幸福だけではなくて、自分が生きている世の中の人の幸福を自分の幸福と受け止めて行動している人もいらっしゃるので、その方々に敬意を払い、せめて私は自分の絶望、自分の無力さ無価値さに押しつぶされないでいたい、な~~んて思っています。
よろしくお願いします。




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気まぐれ番外編:年金 [精神と言葉]

もうすぐ年金の受給が始まる。
前に入った会社で厚生年金基金ってのに入っていたらしくて、その厚生年金基金というものももらえるらしい。だけど、厚生年金基金はこの5月で廃止になり、その後国の年金機構に引き継がれるらしい。
年金相談会に行ったら、年金基金の請求書を送ってくれるように連絡しろ、というアドバイスを受けたので、電話した。
そうしたら、ていねいに受け答えてくれ、数日後に、請求書類一式が送られてきた。
そして、必要書類の中に、「基金加入員証書」というものがあり、この「基金加入員証書」というものの存在がまったくわからない。いつもらったのであろうか。
前の会社を退職する時に、この年金基金のしおりというものをもらっており、その時点で入員証書ももらっているらしいのだが、しおりについている証書入れというポケットのような保管場所には証書は入っていない。
必要がありそうな書類は一応まとめてあるけれど、これを見た覚えもない。引っ越しの時にわからなくなってしまった。

電話しているんだし、本人確認できているんだし、基金が出るってことをお知らせいただいているんだし、それだけで充分じゃね? 引っ越しの時に住所変更はした。その住所変更ができたんだから、本人が確認できているんじゃね?

しばらくその証書を探した後、なんというのか…倦怠感に襲われた。
でも、また電話してそのことを伝えた。
結局、再発行手続きを申請できるので、それを請求書と一緒に送ることになった。でも厚生年金の裁定以降でないと請求ができない。裁定の前に請求するには、見込書という書類の発行をしてもらわなければならない。
5月末に年金基金が解散するまであと一月。私の誕生日が3月28日。年金の裁定をしてもらって4月の1か月間で年金基金自体から分配金が送られてくるのは1か月分か?
お知らせを見ると「基金の若干の上乗せ部分を除いて国に引き継がれ」とある。この「若干の上乗せ部分」っていくらなのかな? 計算してもらえば数値としてはっきり言ってもらえるのだろうか? でも、このお知らせで彼らが強調したいことは「従って、ご損になることはありません」ということみたいだ。ただし、若干の上乗せ部分を除けばね。
 説明の順序、言葉の綾ってすごいな。

東急ハンズでジャンプ傘を買った時、3回使って開かなくなった。
もう、レシートを捨ててしまったけれど、ダメ元で電話したら、レシートなしで新しい傘と交換してくれた。簡単だった。それが、商売をする人のホスピタリティーってやつだと思った。お店からしたら当然のことだったかもしれないけれど、簡単に交換してくれたことに感謝したし、そのことでお店を信用することができる。
それに比べて、お役所の「仕事」って認識はどうかしている。国民にホスピタリティーを示すっていう意志が感じられない。たぶん、役所の人に直接お金を払っているわけではないから、国民からお金をもらっているという実感を持つのは難しいのだろう。

85歳の母の所に厚生年金が増えるかもしれないという通知が来て、昔昔母が17歳当時数か月働いていた会社で厚生年金を払っていた可能性があると、調べてくれて、そして連絡乞う、みたいな書類が送られてきた。
で、その会社の名前を書いて返送しなければならないのだけれど、母は覚えていないと言う。
年金事務所ではどうやってその過去の記録がわかったんですか? どうして教えてきたんですか? 忘れてしまったらどうすればいいんですか?
弟が電話すると言っていたけれど、こういう電話はだいたいすごく待たされて時間がかかって、お昼休みが終わってしまうとのこと。障害者枠で働いている弟は勤務時間に私用電話ができない。20分までしか休憩ができない。それ以上の休憩は10分ごとに違約金が取られる。
しゃーない、私が電話する。時間休も有給で取ることができる。
それに弟にはこういう事態に対処できる精神の強さと解決能力がない。
最近、弟と私は精神的に強い部分が違うのだということがわかってきた。弟は複雑な思考をしようとする時に、ストレスがかかってしまう。私は精神障害を背負わなくてラッキーだった。多少倦怠感を覚えても電話できる。
それにかかる電話代だけが消えていくだけなのかもしれないけど、電話する。そこであきらめて、ないがしろにすると、それはたまって身を穢してくるから、徹底的にその問題の発生場所にコンタクトした方がいいのだ。
そう自分を励まして電話した。
そうしたら、書類を見てくれて、その会社の所在地が九州だという。じゃあ、母が働いていたということはあり得ない。
いったい、何だったのだろうか? 九州に同姓同名、同じ年に生まれた女性がいたということだったのだろうか???? 訳がわからない。
とにかく、その年金記録が本人のものではないということを書類に書いて、返送しろとのこと。「わかりました~」と、電話を切ってから思ったことには、その九州の会社が東京に支店を持っていなかったかどうかということだけど、まあ、あり得なくもないけど、時代的にはあり得ないかな。でも、もう電話する気にはなれなかった。
やっぱり、このイライラのやりとりの時間と電話代が消えただけだった。
でもまあいいや、予想はできたことだったし、こうやって書いておけば、一応腹の虫は治まる。

生活に余裕がないと、こういうがんじがらめの意地悪な通知とかに麻痺してしまう。
でも、電話の向こうで働いている人も時給で働いている普通の国民なんだ。その事務の人を恨んでもしょうがない。腹立ててもしょうがない。ただ、脱力するしかない。このズルズルの無意味な書類の山とそれにかかる浪費、末端で働いている人の関係を放ったらかしにして、どこか抜けてるパフォーマンスと言葉遊びに明け暮れている政治家の顔が憎たらしい。その政治家の手先になって働かざるを得ない現実が憎たらしい。

昔やった自分のいたずらに似ているなと思った。
ラジオ局のふりして、友達に電話をかける。
「おめでとうございます! あなたが当選しました! 賞金がもらえます!」
で、名前を聞き、住所を聞き、最後に言う
「では、キーワードを答えて下さい!」
当然、友達はそんなことわからない。
そんな人を食ったいたずらをしていたから、今、私はバチが当たっているのだ。世の中なめていたから、神様に罰を与えられているのだ。
年金ってなんなのか、ただのシャレとか、いたずら、あるいは詐欺だったのかな?

「はてしない物語」の中で、主人公のバスチアンが読んでいる本の中にある想像の国、ファンタージェンが消えて行く。映画を見た後に本も読んだけれど、よく覚えていない。映画では、ファンタージェンの崩壊を止めるために、確かバスチアンがだれかの名前を実際に叫ばなければならなかった。だけど、バスチアンは名前を思いつかない。主演のバレット・オリバー君はなんか叫んでいたな。なんだったけ? お母さんの名前だったような気もするけれど、もう忘れちゃったよ。もし「お母さん」がキーワードになっているのだとしたら、母性本能とかが幻想ではなかった時代に作られた話だったのだろう。
今地球上のファンタージェン、金とか経済という架空価値で回っているように見えていた幻想の世界も消えようとしている。そんな気がしてならない。数日前の朝、ラジオを聞いていて鳥肌が立った。「はてしない物語」の作者、ミヒャエル・エンデは1994年にNHKの番組でお金とマネーということについて警鐘を鳴らし、それが一時すごく話題になったそうだ。経済評論家の方がおっしゃっていた。ネットで調べたら、その後「エンデの遺言」という本にもなっているようだ。

私たちは経済とか金を武器に人間をたぶらかす仮想大魔王にうまいこと乗せられて、リアルを失いそうになっている。
でも、仮想大魔王を操作することによって現ナマというリアルを得ているという実感を持っている人は、この仮想大魔王と、それによって築かれている自分の城、それを守っている組織、それを信じて動いているシステムを守るだろう。
どうぞ、守って下さい。
だって、結局仮想大魔王帝国に生きている私は、そこに乗っかっているしかない。泥の船かもしれないけれど、私にはどうしようもできない。結局お金がなければ、泥の船から降りることもできない。
確か、このシステムを昔は資本主義と呼んだ。
これはまさにバーチャルゲームを生んだ思考、感覚にピッタリくることなんだろうと思う。投資って、カジノでルーレットの番号を選んで賭けることと同じようなからくりに見える。その上手なやり方を評論家が説明しているけれど、結局「運」ということに尽きるような気がする。
「ゲーム」という単語の意味の中に、「狩猟鳥獣」とか「食料に使われる野生動物の肉」と書かれている。以前は食というリアルにつながっていたものが、ただの遊びとしての狩りになってしまったというような気がしてならない。
仮想大魔王帝国が崩壊すると、どの程度かわからないけれど、何かしらの痛手を蒙るのかしらね? そこで連想される「死」は自分のリアルな「死」につながっており、生き残るために「殺す」行為は自分のリアルな「殺す」つながっている、という感じがする。でも、それは単につながっているだけだ。行動を起こすか起こさないかは最終的には自分の判断、自分のリアルにかかっている。

英語と日本語とを分けて考えて、元の意味を探るっていうのも、何かを知ろうとする方法としてはいいかもだね。






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気まぐれ番外編:娘 [精神と言葉]

義母に「あんた、なんで女の子を産まなかったんだい?」
と聞かれたことがある。
答えられなかった。
だって私の努力だけではどうしようもできないことだから。そういうことはただ聞いておく。そして何か引っかかっているからまだ覚えている。何かの感情が伴っているわけではない。ただの言葉として記憶に残っていて、その裏にあるものを考え続けている。
義母は男の子が欲しくて、できるまでがんばって産んで育てたから、その経験と自信がその言葉を支えているのだろうと思われる。

義姉からの手紙に「娘がいてくれるのはいいことです」とか「娘がいたら良かったのにね」と書かれていることがときどきあったけれど、それはどういう意味だったのかな。
確かにそうだろうな、とは思ったけれど、娘を持たなければわからない何か、私の中に欠けているものがあるということだったのかもしれない。
いやいや~? たぶん、[富士山が見えました。きれいだね」とかそういう、単なる感想っていう気もする。だから特別な意味は無いんじゃないかとも思うけど、これもず~~~っと引っかかっていることだから、保留にしてある。
そうやって引っかかっている言葉は、何かのきっかけでふっと何かにつながって意味を持つことがある。その瞬間って奇跡が起きたような感じがして、世界が輝くような感じがしてうれしいし、そのことがおもしろい。だから大事に温めておく。

子供を産むのなら娘が欲しかった。
子どもが産まれてくる直前にお産婆さんから「どちらがいいですか?」と聞かれた時には「女の子」と答えた。
けどその機会は得られなかったし、これからもたぶん得られないと思う。
でも、私には男友達はいなくて、友達は全員女で、すべての友達が例外なく誰かの娘なのだ。そしてその友達が娘を産んだり養子にした場合、友達を通じて娘の良さを実感できている。姉や妹、姪についても同じことが言える。
それで十分満足している。
息子は???
これにはまだ答えが出せない。少なくとも私と血縁関係にある息子の中で、充分な答えを出す存在になっている息子を思い出せない。
それは単に私が娘であるということで得た感受性によるものなのかな??
でもまあ、受精卵はホルモンの洗礼を受ける前は皆娘だったわけで、乱暴な言い方をすれば、人間は発生当時は皆娘だったってことになる。

何だか知らないけれど、いい年してもまだすごい精神が傷つきやすくて、ボロボロになったと感じた時には、「一人」になると泣いてばかりいるけど、泣くこと自体は好きだし、不思議なくらい全然心が折れない。泣くことって、脳の機能がだいたい統合していて感情にピントが合っている時でないとできないし、なんていうのか「精神が死んでない」って感じがするのだ。
(一人に「」を付けたのは、切手代だか何かで追及されて、公の場面で泣いていたどこかの議員さんを思い出し、あの人と一緒に思われたら困るので、公の場ではないことを強調したかったからです)

傷つくって言うのは、私にとっては単に精神的な違和感、ちょっとしたストレスで、どうしてだか知らないけどそのストレスは大きくは育たない。特に追い込まれると心はよけいに折れにくくなる。
折れたように見えたこともあったけど、少し時間がかかっても復活できた。
まあ、単に気が強く粘着気質でノー天気なのか、という感じもするけど。
それに、最近恥ずかしいってことも少なくなってきていて、こんな文章をズラズラ人目に晒しても全然恥ずかしくない。だって、頭の病院では拘束されて、尿カテーテルにおむつ。いやだったけど、脱糞を止められなかった。頭がおかしいと思われていると、どんなに懇願したって拘束は解いてもらえないのだから、あきらめるしかない。おむつを替える様子もわりとクリアに覚えているけど、今はマジで笑える。人に助けてもらって、笑われて、今ここにいるんだもん。ほとんどのことは恥ずかしくなくなるよ。あの時は腹が立っていて「尊厳死!」と騒いでいたけれど、あれは集団リンチでもいじめでもなかったのだ。現在の精神医療の治療の限界なのだからしょうがない。
そんな中で、何かの形で私にヒントや助言を与えようとし、誠意を見せてくれた人のことは忘れない。そういう人のありがたさは全部いただいて、無駄にせず栄養にしたい。
河原で亡くなった少年。人目についていたのに、放っておかれて殺されてしまった彼の怒り、絶望、悲しみも、全部いただいて無駄にせず栄養にしたい。

調子のいい時は、一人で浮かれて、楽しいことばかりしている。ラジオ体操の歌が始まると踊ってみたりする。
この強さは結局は自分の家族から与えられた力なんだと感じる。
本当にありがたい。
こんなに強く、健康であることに感謝するしかない。
少々考えが狂っていたって、仕事ができれば御の字だ。

「ソフィの選択」という映画をよく思い出す。私はソフィに選択されて殺された娘だったんだなとよく思う。あれは、命がかかった場所での、ソフィの究極の選択だった。理不尽な力で選択を強いられ、無力なソフィは娘を捨てるしかなかった。ソフィは自分より息子が生き延びてくれることを祈っていたに違いない。だけどソフィは選んだ息子も失った。そしてソフィはそれをずっと後悔し、生き続けている自分を恥じている。
私の心はいつもソフィに寄り添っている。
この間ふと、私は私自身が求めていた娘になりたいのだと気がついた。だからいつまでも折れずに、私は私の理想の娘になろうとしている。人がどんな娘を求めようと、どんな娘になろうとどうだっていい。もう人のことは考えないことにした。
私はただ、私自身の理想の娘として生涯を終えたい。

ハハハ。
文章にすると大げさだけど、本当の気持ちです。
「究極のナルシストバカ多幸感」




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気まぐれ番外編:お菓子外し [精神と言葉]

最近、ネットマガジンを読む機会が多いのだけれど、いろいろ新しい言葉があるのでびっくりする。その言葉で検索してみると、けっこう話題になっていて、そのことで悩んだり、相談したりしている人も多いのだ。

最近笑えたのは「お菓子外し」という言葉だ。


だけど、私はもっと意地悪な人を見た。
それは以前の職場で一時上司だった年下の女性Cさんだ。その人はたとえば、12人いる職場に10個だけ菓子を買って来て、私に配れというのだ。
この場合、11個あれば、私がもらわなければいいだけだから簡単。
だけど10個ってのが悩ましいところで、私の他にもう一人配れない人が出てくる。
その時1人外出しいている人がいたら、「やった~」と思って私はその人に配らないことにした。それからも、Cさんはたいていは足りない菓子を買って来て、私に配れって言うことがあったので、時には話の分かってくれそうな人の分だけ半分ずつにしてもらったりして対応していた。

Cさんは数が数えられなかったのか?
そうではなかったと思う。超「エリート」な学歴の方だったし、ご自分ではきめ細やかな配慮ができることを自慢に思っておられたし、バレンタインデーには率先してチョコを配ろうと舵取りをしていらしたこともあったし、お菓子も好きで、興味のあるお菓子は職場の人と分け合って食べたいという気持ちのある方だった。だからあれは単に私個人に対する憂さ晴らしのようなものだったのではないかと想像している。きっとその日、Cさんにとって何か気に食わないことがあったのだろう。

今思うと、Cさんはたぶん何らかの形で精神に偏りを持っていた方なのだろうと思い当たる。
公の場で感情の制御ができなくなることがあって、パワハラが炸裂する時もあった。そのほかにも人間的に信じられない言動が時々見られた。
病気なのだからしょうがない。そういう方だという認識が職場全体にあり、「さわらぬ神に祟りなし」というごとく、当たり障りなく関われば問題はなかったので、そのままその部署での位置を確保していられただけなのだと思う。

その当時、私の隣の席でだんだん問題行動が目立ってきていたKさんという人がいて、その人は被害妄想と幻聴がひどく、時間も守れなくなってきており、会社にいる時に時々明らかに仕事をしていないことがあって、何か縦書きの文章を創作しており、これがCさんの目に障っていたようだった。
ある日、Cさんは私にKさんの勤務管理をしろと言ってきた。
だけど、私は単なる派遣社員だったから人の管理なんかできないと答えた。
その日の午前中、CさんはKさんにはっきりと問題点を伝えたようだった。
Kさんは説明を受けたその足ですぐに荷物をまとめて会社から出て行ってしまい、そのまま来なくなってしまった。その後、家に電話をかけても電話口に出ることさえしなかったらしい。
この場合、Kさんは統合失調症だったことが考えられる。
最初の被害妄想を聞いた時には心配して、私のできる範囲で手紙を書いたり、お話したりしたのだけれど、私に腹を立ててしまい口をきいてくれなくなってしまった。私は胃痛になった。だけど、お金が必要だったから、会社を辞めるという選択肢はなかったのでどうしようもできなかった。
Kさんに対して失礼に当たらないように、Cさんにも現状を伝えたが、そのことに対してCさんは何の感想も持たれなかったようだった。
(今年、自分自身の精神的問題がほぼ落ち着いたと感じ、Kさんがその後どうしておられるか気になり、妹さんとおつきあいのあった友人にアドレスを聞いて連絡を取ろうと試みたが、アドレスが使われていないようだった。いつか、どこかでわかったら連絡を取ってみたい)

お菓子外しによって不快な思いをされた方は、お菓子外しをする人の人間性を疑わざるを得ず、また、会社で疎外感を感じたりすることで、その会社で仕事をこなすというモチベーション(やる気、動機づけ)に揺らぎが起こるかもしれない。でも、それだからといって、簡単に職場を変えることなんかできない。
経済的に独立して生きて行くということは、大変なことだと思う。特に会社という組織に属して、そこで不特定多数の個人と関わって、ストレスを抱えずに仕事を続けて行くことは大変な事だろうと思う。
その組織の中で何が優先されているか。それは簡単にはわからない。その組織の中で自分が何を優先していて、どんなことにどこまで耐えていけるのかを見極めることが大事だと思う。どのみち、苦痛の方が大きくなりすぎたり、病気として抱えるようになったら仕事自体を続けられなくなってしまうだろう。

お菓子外しをする人はたぶん、それが趣味かなにかなのだ。そのことの何が楽しいのかは意味不明だけど、それでストレスが発散できるわけだよね、たぶん。私だったらそんなことする方がストレスになるしエネルギーも必要になるから、理解不能だけど、世の中にはそういう人もいて、ネットで通じる言葉になるほど、けっこう数多く存在するってことなのだ。

数人で集まってイジメられたら問題だけど、そうではなかったら、無視しよう。
お菓子外しさんの憂さが晴れたのなら、あなたはそれを手伝ってあげたのだ。それで良しとしよう。晴れないのなら、晴れるまで外してもらえばいいじゃん。お菓子外しさんからお菓子なんてもらわなくても死ぬわけじゃないから気にしない方がいいよ。
とにかく強くなろう。
世の中には色々な趣味の人がいるのだ。お菓子外しをすることでストレス発散できるなんて得な性格だよね。だから変わった趣味だと認めてあげて、そのことについてとやかく思うのはやめよう。ただ単に精神がちょっとおかしいだけかもしれない。下手に内面に狂気がたまっていくよりは、お菓子外しで毒抜きできているのなら、かわいいものだ。
お菓子を持って来た人にお礼を言うことができないから、お菓子を持って来た人から「礼儀知らず」くらい思われちゃうことがあるのかしらね? もしかしてお菓子外しさんはそこまで計算しているのだろうか? だとしたら相当な策略家なのか? だけど何のために? やっぱり理解を越えている。そこまでいくとちょっと悪趣味だから軽蔑くらいしてもいいと思う。もらわなくてもお礼を言っちゃうっていう手もある。
お菓子外し友の会とかに所属していて、お菓子外しのことを皆で話して楽しんでいるってことがあるかしら? その場合、友の会に入るように誘われても入らないようにして下さい。お菓子外し教という宗教ということも考えられる? お菓子外しをすることが功徳につながるとか? そんなのウソだと思うので、入信を誘われても断って下さい。
お菓子外し合戦にならないようにして下さい。そんな姑息な方法で人を傷つけて、それでストレスが発散できるような人にはならないでください。



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気まぐれ番外編: STAP細胞 [精神と言葉]

STAP細胞の再現はできなかったようです。
残念です。
これを世間に発表することになったOさんはこの後どうするのでしょう。
いろいろなことを考えさせられる事件でした。

私は小学校2年生の時に虚言癖があったのだけれど、つまらない嘘はすぐに辻褄が合わなくなるというのは、その時でさえすぐにわかりました。それに父親が虚言癖を持った人だったので、妄想と現実との区別というのにわりと敏感だったかもしれません。

Oさんはもしかしたら、スピリチュアルな世界でだったら自分の妄想を生かせたのかもしれないのに。科学ってものがどういうものなのかというその基本部分が抜けちゃってて、失敗しちゃったのかもね、って感じがしました。
だけど、基本部分の間違いってわりと見破りにくいものですよね。
書籍の編集とかをしいていると、タイトルとか見出し自体に間違いがあることに気が付きにくいことがよくあって、印刷前にぎりぎり見つけることができて良かった~、ということがありました。
それがあたりまえ、あるいは「そういうもの」ということでそのまま通って行って、ある時に何かの事件で何かの間違いが発覚して、本当はそれじゃいけなかったんだけど、でも慣例ではそうなっていたんでそれでいいと思いました…。みたいな事件は多いですよね。

まあしょうがない。だって家族や友達との付き合いだったら、「間違ってた~」って言ってそれで「ちゃんちゃん」って通ることが多いし、基本、その程度の感覚でやっていきたいと思っています。
思考というのはそういう錯覚、思い込みによって成り立っている部分も多くて、そういう錯覚、思い込みがあったからこそ成功したり人に認められるようになることもあるわけで、それが良いとか悪いとかなんて考えたってしょうがないと思いました。
思考は見えない。
だから見えるようにと文字にして、整理するためにレッテルを貼っていくんだもん。
レッテルを貼ること自体が良いとか悪いとかっていう論調は無意味に思えます。
貼ってあるものをどうやって見分けるか、自分はどうやって貼って行くのかってことが大切なんじゃないかって気がします。
貼ってあるからといって、中身までそうだということで、安心しきらないようにしたいです。
だけど疑い過ぎて何も受け付けられなくなるってことも避けたいです。
どちらかといえば、柔軟にやり過ごしていきたいです。

Oさんの個人的なことやら責任やらのことは考えたくないです。
これは起こるべくして起こったことという気がします。
物事の流れやそれを解決しようとする人たちの動きを知るいい機会だったと思います。
まだお若いのだし、自分をつぶすことなく、ゆっくりと現実に戻って欲しいです。
そしてまたキラキラ輝く場所を見つけて欲しいです。






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2-4 メンヘラ [精神と言葉]

ネットで「メンヘラ」という言葉をよく見かける。
それは精神障害などを軽く表現する時に使う言葉のようだ。私の解釈では、精神に揺らぎがあることを他人に感じさせる人、あるいは自覚している人という感じかなと思った。
今はメンヘラの時代なんだな、と思う。
今年、50本ほどのアメリカ映画をDVDで見たけれど、ほとんどがメンヘラチックな話だった。
一番すごかったのは、「ハサミを持って突っ走る」という映画だった。
これは実話を元にしたコメディー映画で、日本では未公開だったようだ。あるゲイの青年が書いた自伝がベストセラーになったようだ。この青年の母親がメンヘラで、ある精神科医にかかるようになるのだが、この精神科医の家族がすごい。皆メンヘラだし、メンヘラが集まってくる。その精神科医の家で生活を共にした、不思議な世界が描かれていた。

「ポーラーエクスプレス」は、まさに、パラノイアの人たちが作ったようなアニメで、さらにぶっとんでいた。フルCGアニメなのだけれど、子どもが変にリアルすぎてかえって不自然さが目立って気持ちが悪いのだ。実在の俳優がモデルになっている車掌さんの目が泳いでいるようなところも、怖くて、びっくりした。
全体にすごくテンションが高いのに、クリスマスの経験がないという、線の細い生きているんだかいないんだかわからないような男の子がやけにかよわく消え入りそうで、暗く静かで、歌がしみじみしすぎていて、かわいそうすぎて、泣けてしまった。
この子にこの1回のクリスマスの時にだけプレゼントをあげて、いったい何になるのだ?
皆の所にいつもサンタクロースからプレゼントが届くなんて、嘘っぱちなのに。
これがファンタジーなの?
仮に現実に、サンタクロースのプレゼントが届かない子がこれを見たら、この映画をどうとらえればいいのだろうか???
何が描きたかったのか、私にはわからなかった。
クリスマス、クリスマスってわいわいやっているだけだ。私には支離滅裂に見えた。
どーかしているって思った。
アメリカはすごい。
こういうものがすべてエンターティンメントで成り立っている。
メンヘラの人達が自覚し合って、メンヘラを擁護し、ある時はメンヘラを筋書上の悪者に仕立てて叩き、仕事上では盛り上がり支え合ってエンターティンメントという世界を作っているのか?????とさえ思ってしまった。

昔見た、「メリーに首ったけ」という映画では、身体的な「障害」を超えて笑いに昇華させていて、びっくりした。
日本だったらタブーに近い世界だ。
だって、テレビじゃないのだ。映画館という限られた場所で上映されるのだ。映画は見たい人が選べるんだもの、見たくない人は見なくていいわけだから、描ける世界にほとんどタブーは無くなっているのかも?? とも思った。

それぞれの個人の「欠陥」は、単に個人個人の違いであり、普通じゃないから意味がある。
世間にさらされることによって、今自分がいる「普通だと思っていた」世界から続いている世界だったんだ~と気づかされる。
そこに谷間なんかなかったんだ。
あるいは、あったとしても、易々と超えられる人がいるんだ~。
まてよ、超えられるんだ。人間てものは。

だけどこのハイテンションのエンターティンメントの世界で生き続けることができず、自死を選んだ人がいた。
ご冥福をお祈りします。
また、最近顔が激変した女優さん。数人いる。演技も容姿もすばらしく、世界から評価され、巨額の富を得、実生活だって充実していそうなものだけど、いったいなにが足りなくてそんなことをする必要があるのか、理解不能だ。
一時、かわいくて輝いていてコメディエンヌとして人気のトップを走っていた女優さん。「戦火の勇気」あたりで進路を迷い出した感じがして、「イン・ザ・カット」で完全に迷っちゃった感じがする。いったい何がどれだけ必要なのだろう。残念でならない。
でも、そんなこと単なる一観客のばあさんなんかに、とやかく言われるような筋合いのもんでもないよね。彼女たちは自分たちのやり方で心の平穏を守り、自分の立ち位置をしっかりさせるために、実行したことなのだろうし、大騒ぎすることでもないのかな。
それに、しわも体型も隠すことなく、自然にステキに年を取って、現役で仕事をして要の役をきっちりこなしている俳優さんだってたくさんいる。
走り続けながら、自分の生きざまを晒して生き続けるということが、アメリカのエンターティンメント界を生きるプロの仕事なのかなとも思い、それはそれで、ある意味すごいなあと思った。

今、自分がメンヘラだ、と思っている若いネット人間たちは、自分たちで精神分析をし合っているようだ。息子が言ってた。
「先輩などで、精神的に行っちゃっている人がいるけど
 皆、金もないし、病院に行けば何かの診断名は付くだろうけど、だからなんなのか」
みたいなことを。
そういう人たちはだいたい双極性の揺れに振り回されていて、周囲から見ると「躁」の方が性質が悪いと。
まさにその通りだと思い、うなずくしかなかった。
私も初めて就職した頃から次の職場に移る頃までは、この揺れに悩まされたことがあった。本人にとってはテンションが上向きの方が調子がいいから(これは現在もだけど)、人に迷惑をかけていても気が付きにくい。たぶん、このテンション高めの間に人にいっぱい迷惑をかけているし、傷つけてもいるし、イラッとされて嫌われるのだな、と今になって思いつくことがいくつかある。
それは単に「若気の至り」という言葉で表される類のことなのかもしれないけど?
気分が落ちている時には体感的には辛いけれど、行動は落ち着いているのかもしれない。
メンヘラの自覚のある今の若い人達は、経済様の支配する世の中に生きているという自覚もあるみたいだけど、経済様に振り回されないで、自分の生きる部分を抑えないで、隙間に根を張って、発散し続けながらやって行こうと思っているみたいだ。

今も昔も、メンヘラ女子というものは嫌われ者の存在のようだけれど、私もまさにメンヘラ女子のかまってちゃんだったのだな、と思った。ただ、私は自意識が強すぎたから、それを人前に晒すのが恥ずかしくて、人に見つからないようにコソコソしていた。だから人から叩かれず、叩きそうな気配の人には必要以上には近づかず、ある時からは叩かれても対抗できるようになってきて、不思議と孤立することもなく、疎外されることもなくやってきたのかなと思った。
やっと楽になった。ただ年を取ってきて良かった。年を取るということがこんなに平穏で安心できることだとは思ってもみなかった。

精神の揺らぎ、歪みって、性格というものにかなり近いと思う。法律に触れるような大きな迷惑を起こさず、自分とどうにかつきあって行けるようであれば、病気として抱えずにやっていけるものなのだろうと思う。時には自分の周りに何かの高い囲いを作ってその中に入り込んでしまうのも一つの方法だと思われる。その囲いは金でも結婚でも、家庭でも、ゲームや好きな物、応援したい物、人、周りにある見える物触れるもの触れない物、ありとあらゆるもの、なんでもいい。そういう囲いに守られ、捕まって、だけど捕まりすぎず、時には捕まる所を変えたりして、なんとか妥協点を見つけてやっていければいいのかな。
たくさん捕まる所があると、戻って来やすいような気がする。
精神が不安定になって、体感に違和感を抱き助けが必要になった時には薬の服用も有用だろう。
自分のことをメンヘラだと疑ったことのない人がいるのなら、それはそれでいいと思う。自分はメンヘラじゃないってことで、きっちり線引きできて、自分の信じられる「正常」や「普通」を保っていられるなら、それに越したことはない。

私は人間をやっているということに、やっと慣れてきたのだな、きっと。そして、誰もが人間なのだから、しょうがないと心から思えるようになったのだと思う。
(ヤケクソとか開き直りという状態にかなり近いような気もするけど…?)
大きな差があるように見えても、近づいてみると意外に大したことはなかったりする。どこか共鳴できて一緒に泣き笑い楽しむ人がいてくれれば、それだけで充分だ。今まで得られたそういう一瞬を思い出すことができて、これからもまたそういう一瞬が来るのかなと思い描ければ、それだけでハッピーだ。その一瞬を得るために時間を惜しまず、労力を惜しまず、テキト~に最善を尽くしたい。それは今まで接して来た人達が私にしてきてくれたことだから、真似して行きたい。
アナ雪で歌われているように、「ありの~ままに~♪」行きたい。アナの気持ちもエルサの気持ちもわかるけど、私はオラフみたいになりたい。つららが胸を突き刺して、頭と胴体がばらけちゃっても、「あれ~刺さっちゃった~」デヘヘって、笑っていられるようになりたい。
いい年になったのだから、もう暴走はやめたい。
「足るを知る」を知りたい。
「ばあさん」を楽しみたい。
私は、まちがいなく生粋の東京人、新宿果汁100%で日本人のナルシスト。だけど感性の多くの部分はアメリカのエンターティンメントに育てられたんだな。びっくりした。
とりあえずは、今日眠ることと、明日の朝を迎えることが楽しみ。


とりあえず2部はおしまい。
3部があるかどうかは不明。
頭、爆発しちゃいました。




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2-3 精神の強さ [精神と言葉]

「ゼロ・ダーク・サーティー」
という映画が気になっている。
(以下、もろにネタバレです。ストーリーを知りたくない人は読まないで下さい。)

この映画では、CIAのプロジェクトにより、ビン・ラディンを殺害するまでの様子が描かれている。
主人公のマヤという女性がこのプロジェクトに加わって、ほとんど彼女一人の信念を押し通す形で、組織自体を動かしビン・ラディンを追い詰めていく、というようなストーリー展開になっている。
彼女の精神力が凄まじい。
組織の中にあって、仕事を成すということの意味を考えさせられるし、男女という線引きを越えて、個人の能力(物事を自分で考え実行し、解決して行く能力とコミュニケーション力)のみで「場」を与えてもらえるアメリカという国の強さも考えさせられる。
この人たちの言葉のやりとりでは、「ハラスメント」なんていう意識は最初から飛んでいる。
男女差の違いや身分の違いで相手を罵る言葉でつぶれてしまうような人は、最初からここには参加できない。「ビン・ラディン」を殺害するという具体的な目的があり、遂行する時期を探り、自分たちの存在価値を守るために皆必死だ。また、テロが起こりやすいその最前線にいることで、日常的に生命の危機に晒されている。
この映画では、アルカイダのテロリストを拷問するところがある。テロリストは両方の手を吊るしたような形で縛られたままだし、食事を与えなかったり、水をかける、罵倒する、小さい箱に押し込めて蓋をしめる…、などなど、何日も続けるのだ。だけど、テロリストの心はなかなか折れない。気が狂わないのだ。尋問する側は彼らが絶望するのを待っている。だけどなかなか絶望しない。こんなに精神が強いってのはいったいどういうことなんだろう。どうやったらこんなに強い精神力を持っていられるのだろう。
訊問する側にもかなりのストレスがかかるに決まっている。相手の強靭な精神力に対抗するために疲弊している感じだ。その拷問で得られた自白が、真実なのかどうかなんて、どうやって判断しようというのだろう。

この張りつめた仕事の中で、彼らの息抜きは何なのだろう。ある一人の米国人男性は施設内で飼っていた猿をかわいがっていた。が、ある日、その猿は殺されてしまった(逃がされたんだったかな?)。それは誰が殺した(逃がした?)のかはわからなかったが、見回りをしている兵士(職員?)は現地で採用されている人たちのようだ。この兵士たちの誰かが殺した(逃がした?)のかもしれない。人種が違うということで元々越えられない感覚というものがあるような気がする。現地で雇われた人たちは宗教も違う。金を稼ぐために仕事は仕事としいてやっていても、個人を受け入れらないこともあるのだろう。仕事は失いたくはないが、どこかで鬱憤を晴らし、何かしらの警告めいたものを与えたかったのかもしれない。陰でこっそり笑っているのかもしれない。
だけど、ここでその犯人捜しをするのは無意味だし、訊問する側にそこまでの精神力はない。このできごとだけでもかなり心が折れる。だけど仕事は続けなければならない。

マヤの息抜きは、友達との束の間のおしゃべりだったのではないだろうか。この映画では「男女間の信頼」とか「愛」なんて要素は最初から切り捨てられている。
その友達とのおしゃべりを、ちょっと豪華なディナーを取りながら楽しもうと、マヤはホテルのレストランに向かった。だけど、マヤが組織の要として働いているということは、敵対する組織側の分析によってだんだん暴かれてきている。そして、友達と待ち合わせをしている所を狙われ、爆弾によるテロに遭遇してしまう。

マヤが抜擢されこの地に送られて来たということは、周囲の人間に彼女の能力が認められていたからだろう。でも結果的に彼女を真の「仕事の鬼」にしたのは、職場で束の間の休息時間を共有することができた、この友人の「死」だったのだと思われる。
レストランでは九死に一生を得たけれど、その後、テロリストの情報を持っていると思われる重要人物が乗った車をCIAの施設に招き入れることになり、その入り口で、その車が爆発し、友人は死んでしまったのだ。その重要人物を招き入れるために「例外的に」警戒を解く必要があった。それが仇となったのだ。
映画というのはおもしろいもので、観客はその「危険」を察知する。というか、臨場感を高めるために、そういうふうに作られている。
あああああ、その車を入れちゃだめだよ、と思う。何かあるに決まっている。その車が爆発するに決まっている!!!!
それは映画の進行上の「お約束」なのだけれど、万人の心をつかむ陽気なエンターティンメントと違って「無理筋感」がないので、真実味を高める。

マヤには何か引っかかることがあった。以前にも訊問やら拷問やらで引き出している証言があり、それが記録として残されているので、それを探し繰り返し見て、自分の直感に従ってどんどん仕事にのめり込んでいく。

さて、インターネットでこの映画のことを検索していたら、この映画は「CIAのプロパガンダ」だということで批判している人もいるようだった。
この映画の中ではマヤ自身がビン・ラディンの亡骸を確認するという場面が描かれており、それは映画の説得力を高めるために必要な場面ではあるのだけれど、現実ではどうだったのか、ということが議論されているようだ。
もし本当に遺体を確保したのなら、写真を撮るはずだ。もし写真を撮って、本当に「ビン・ラディン」を殺害したというのなら、その写真が公開されてもいいはずだ。結局、「殺害した」ということは大統領の「公的な発言」で発表されただけで証拠は示されていない。ビン・ラディンが何かで死んだという確実な情報だけがあったのかもしれない。この発表じたいが大統領の人気低迷の回復と、次期選挙を狙った策略だと解釈されているようだ。
CIAの組織自体のことはよく知らないけれど、アメリカのエンターティンメント映画ではよく出てくるから、なんとなく漠然とはわかるような気がする。
この映画を描く「金」を与えたのはCIAだということらしい。だから、CIAやアメリカ政府を擁護する映画だというのだ。
でもだから何だというのだろう。金がなくちゃ、映画は作れないのだ。

この映画の中で私が信じたいのは、女性監督である、キャスリン・ビングローの信念なのだ。たとえ、CIAの手先だと揶揄されても、それを越えて描きたかったことがあると思うのだ。
テロリストに対抗するための正義ってなんなのだろうか。そこに答えはない。任務を終えて帰るマヤの虚空を見つめているような感じ。まさにそのマヤの立ち姿を描きたかったのだろうと思う。また、結局、組織の中にあって組織を動かすのは、何にも動じない強い意志と信念を持った「個人」であるということが描きたかったのだと思う。
そしてこの監督もその一人だと思う。国とか映画界という組織の中でもがき、妥協点を探り、自分の仕事を通して、最善を尽くしているように感じる。私は女であるからこそ、「女性」という感性で彼女を信じることができる。というか、信じたい。
また、組織は特に国の組織であると「先に金」があるために、金銭欲に駆られている個人=経済的な達成感や名誉だけをさらに得る必要ある人は腐敗しやすく、また自分の立場を守るために躍起になる人も腐敗しやすいということも、描きたかったのではないのかな。

マヤの個人的な背景については語られないし、実際に起こった事件との比較分析をしいている人もいて、マヤの人物像は数人のことだとも、本当にこんな人がいたのだとかも言われているようだけど、そんなことどうだっていい。
主人公を女性にしたことが、映画に芯を与えたと思う。
これは映画なのだ。エンターティンメントなのだ。こういう映画がエンターティンメントとして成り立っていることがすごいことだと思うのだ。

この国は「プロフェッショナル」という意識を強く抱くできることができる国なのかもね、とも思った。



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