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2-3 精神の強さ [精神と言葉]

「ゼロ・ダーク・サーティー」
という映画が気になっている。
(以下、もろにネタバレです。ストーリーを知りたくない人は読まないで下さい。)

この映画では、CIAのプロジェクトにより、ビン・ラディンを殺害するまでの様子が描かれている。
主人公のマヤという女性がこのプロジェクトに加わって、ほとんど彼女一人の信念を押し通す形で、組織自体を動かしビン・ラディンを追い詰めていく、というようなストーリー展開になっている。
彼女の精神力が凄まじい。
組織の中にあって、仕事を成すということの意味を考えさせられるし、男女という線引きを越えて、個人の能力(物事を自分で考え実行し、解決して行く能力とコミュニケーション力)のみで「場」を与えてもらえるアメリカという国の強さも考えさせられる。
この人たちの言葉のやりとりでは、「ハラスメント」なんていう意識は最初から飛んでいる。
男女差の違いや身分の違いで相手を罵る言葉でつぶれてしまうような人は、最初からここには参加できない。「ビン・ラディン」を殺害するという具体的な目的があり、遂行する時期を探り、自分たちの存在価値を守るために皆必死だ。また、テロが起こりやすいその最前線にいることで、日常的に生命の危機に晒されている。
この映画では、アルカイダのテロリストを拷問するところがある。テロリストは両方の手を吊るしたような形で縛られたままだし、食事を与えなかったり、水をかける、罵倒する、小さい箱に押し込めて蓋をしめる…、などなど、何日も続けるのだ。だけど、テロリストの心はなかなか折れない。気が狂わないのだ。尋問する側は彼らが絶望するのを待っている。だけどなかなか絶望しない。こんなに精神が強いってのはいったいどういうことなんだろう。どうやったらこんなに強い精神力を持っていられるのだろう。
訊問する側にもかなりのストレスがかかるに決まっている。相手の強靭な精神力に対抗するために疲弊している感じだ。その拷問で得られた自白が、真実なのかどうかなんて、どうやって判断しようというのだろう。

この張りつめた仕事の中で、彼らの息抜きは何なのだろう。ある一人の米国人男性は施設内で飼っていた猿をかわいがっていた。が、ある日、その猿は殺されてしまった(逃がされたんだったかな?)。それは誰が殺した(逃がした?)のかはわからなかったが、見回りをしている兵士(職員?)は現地で採用されている人たちのようだ。この兵士たちの誰かが殺した(逃がした?)のかもしれない。人種が違うということで元々越えられない感覚というものがあるような気がする。現地で雇われた人たちは宗教も違う。金を稼ぐために仕事は仕事としいてやっていても、個人を受け入れらないこともあるのだろう。仕事は失いたくはないが、どこかで鬱憤を晴らし、何かしらの警告めいたものを与えたかったのかもしれない。陰でこっそり笑っているのかもしれない。
だけど、ここでその犯人捜しをするのは無意味だし、訊問する側にそこまでの精神力はない。このできごとだけでもかなり心が折れる。だけど仕事は続けなければならない。

マヤの息抜きは、友達との束の間のおしゃべりだったのではないだろうか。この映画では「男女間の信頼」とか「愛」なんて要素は最初から切り捨てられている。
その友達とのおしゃべりを、ちょっと豪華なディナーを取りながら楽しもうと、マヤはホテルのレストランに向かった。だけど、マヤが組織の要として働いているということは、敵対する組織側の分析によってだんだん暴かれてきている。そして、友達と待ち合わせをしている所を狙われ、爆弾によるテロに遭遇してしまう。

マヤが抜擢されこの地に送られて来たということは、周囲の人間に彼女の能力が認められていたからだろう。でも結果的に彼女を真の「仕事の鬼」にしたのは、職場で束の間の休息時間を共有することができた、この友人の「死」だったのだと思われる。
レストランでは九死に一生を得たけれど、その後、テロリストの情報を持っていると思われる重要人物が乗った車をCIAの施設に招き入れることになり、その入り口で、その車が爆発し、友人は死んでしまったのだ。その重要人物を招き入れるために「例外的に」警戒を解く必要があった。それが仇となったのだ。
映画というのはおもしろいもので、観客はその「危険」を察知する。というか、臨場感を高めるために、そういうふうに作られている。
あああああ、その車を入れちゃだめだよ、と思う。何かあるに決まっている。その車が爆発するに決まっている!!!!
それは映画の進行上の「お約束」なのだけれど、万人の心をつかむ陽気なエンターティンメントと違って「無理筋感」がないので、真実味を高める。

マヤには何か引っかかることがあった。以前にも訊問やら拷問やらで引き出している証言があり、それが記録として残されているので、それを探し繰り返し見て、自分の直感に従ってどんどん仕事にのめり込んでいく。

さて、インターネットでこの映画のことを検索していたら、この映画は「CIAのプロパガンダ」だということで批判している人もいるようだった。
この映画の中ではマヤ自身がビン・ラディンの亡骸を確認するという場面が描かれており、それは映画の説得力を高めるために必要な場面ではあるのだけれど、現実ではどうだったのか、ということが議論されているようだ。
もし本当に遺体を確保したのなら、写真を撮るはずだ。もし写真を撮って、本当に「ビン・ラディン」を殺害したというのなら、その写真が公開されてもいいはずだ。結局、「殺害した」ということは大統領の「公的な発言」で発表されただけで証拠は示されていない。ビン・ラディンが何かで死んだという確実な情報だけがあったのかもしれない。この発表じたいが大統領の人気低迷の回復と、次期選挙を狙った策略だと解釈されているようだ。
CIAの組織自体のことはよく知らないけれど、アメリカのエンターティンメント映画ではよく出てくるから、なんとなく漠然とはわかるような気がする。
この映画を描く「金」を与えたのはCIAだということらしい。だから、CIAやアメリカ政府を擁護する映画だというのだ。
でもだから何だというのだろう。金がなくちゃ、映画は作れないのだ。

この映画の中で私が信じたいのは、女性監督である、キャスリン・ビングローの信念なのだ。たとえ、CIAの手先だと揶揄されても、それを越えて描きたかったことがあると思うのだ。
テロリストに対抗するための正義ってなんなのだろうか。そこに答えはない。任務を終えて帰るマヤの虚空を見つめているような感じ。まさにそのマヤの立ち姿を描きたかったのだろうと思う。また、結局、組織の中にあって組織を動かすのは、何にも動じない強い意志と信念を持った「個人」であるということが描きたかったのだと思う。
そしてこの監督もその一人だと思う。国とか映画界という組織の中でもがき、妥協点を探り、自分の仕事を通して、最善を尽くしているように感じる。私は女であるからこそ、「女性」という感性で彼女を信じることができる。というか、信じたい。
また、組織は特に国の組織であると「先に金」があるために、金銭欲に駆られている個人=経済的な達成感や名誉だけをさらに得る必要ある人は腐敗しやすく、また自分の立場を守るために躍起になる人も腐敗しやすいということも、描きたかったのではないのかな。

マヤの個人的な背景については語られないし、実際に起こった事件との比較分析をしいている人もいて、マヤの人物像は数人のことだとも、本当にこんな人がいたのだとかも言われているようだけど、そんなことどうだっていい。
主人公を女性にしたことが、映画に芯を与えたと思う。
これは映画なのだ。エンターティンメントなのだ。こういう映画がエンターティンメントとして成り立っていることがすごいことだと思うのだ。

この国は「プロフェッショナル」という意識を強く抱くできることができる国なのかもね、とも思った。



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