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2-2 東京 [精神と言葉]

弟は感情表現や動きが「普通」とは少し違うまま、それが弟になっている。
弟は強い薬を飲んでいるので、その副作用で手が震え顎が震える。手の震えを止めるために、抗パーキンソン病薬を飲んでいる。
何かおかしい。
だけど、私は専門家ではないし、それを訴えるほどのちゃんとした知識をもっているわけではない。

世間ではそういう「変な」動きをする人には近づかず、目を合わせないと言う暗黙のルールができている。だから、ある意味、弟のような人間は都会では生きやすいのかな? と私の誕生日に家族で行った、東新宿(歌舞伎町や大久保駅に近い所)のファミレスでふと思った。
その店は人気店とのこと。けっこういつも満席だということだった。だけれど私たちが行った時はランチタイムをかなり過ぎていたので、店内は空いていた。
このファミレスで出会った、今の若い人はすごかった。モバイルゲームをやって一人でべらべら、私にも聞こえる一人言をずっと言っていたし、10代か20歳そこそこの女の子と男の子のやりとりが耳に入ってきて、強烈でびっくりした。けんかだと思ったらけんかじゃなかった! 女の子が男の子を罵る言葉が狂っていた。人間として立ち直れないような言葉を次々に連発して男の子を完全にへこませたと思ったら、ぷいっと席を立ってしまい、しばらくしてからまた何食わぬ顔で帰って来て、それで二人は関係を保っているようだった。 
彼らにとっては、区切られた座席は一人でいる場所と同じなのだ。
自分も他人の目を気にせず、他人も自分を気にせぬ空間。人に見えているのに! 聞こえているのに!
店員さんはたぶん、そういうことは全く見ないようにしている。それじゃなきゃやって行けないだろうし、自分の金を稼ぐのが最優先。それは仕事に対して私も思っていることだからわかる。
客の言葉の中の注文の部分についてだけ反応して、自分のするべき仕事だけをしているんだな、と思った。 
母はこのファミレスが好きだと言っていた。周りを気にするような人ではないけど、なにか実感で居やすさがわかるのかなと思った。

居やすさ=癒すさ? こじつけだけど…(~~;)。

外苑前などのレストランではちょっと違う。
店員さんはけっこうこちらをジロジロ見る。お客さんでも、なんか私たち家族の様子が変だと思うと、振り返って観察したり、ときどきこっちを見る。今までゆっくり本んを読んでいた人も、居心地が悪くなったのかそそくさと席を立って出て行ったりする。
弟の手の震えは尋常ではなくてテーブルも揺らすことがあるし、大量の水を飲むため水のおかわりばかりしている。立ち上がって水を取りに行く様子も、まあ、なんというか、普通ではない。
母や弟がそれをちっとも気にしないだけだ。
私は自分がスパイかなんかなのか? って思うほど、辺りの気配に気を配っていて、自分でもびっくりする。その店員さんや周りの人、こちらをじろじろ見る人をまっすぐ睨み付けるようなことはしないけれど(私の元友達はこれができた)、なんか周りをすごく観察していて、いつもと違うことに気が付きやすい。
これは、やっぱり私のビョーキのせいで、こういう周りの状況と自分とを常に関連づけると「被害妄想」になるのだと思う。でも、実際、私は自分たちと周りの動きを関連付けている。ただ、そのことをわざわざ人に言わないというだけだ。それを言ったら、変だと思われるってことがわかっているからか~? 別に思われたって構わないんだけど? あまり楽しくなりそうもない話題だから、人に言わなかっただけのことかもしれない。だけど、人に言わないようにしているわけでもない。何かの関連で話すことがあれば、抵抗なく話せる。時と場合、話す相手を認識できているってだけの話なのだ。
私だって、動きの怪しい人、雰囲気の違う人を見たら身構え、傍に寄らないだろう。それは単に自分の身を守るということだと思う。余計なことに関わりたくはない。あたりまえのことだ。
自分の身内だからつきあえるのだ。それだから気が付くことができたのだ。

偏見を持つということは、元々は自然界に暮らす動物が自分の身を守るために身に着けた脳の機能の一つなのだと思う。周囲の情報を察知し、安全かどうかを常に考えて(というより感じて?)行動することで自分の身を守る必要があったからだろう。
その機能は情報が入ってくる脳の入り口にあるらしい。現在、人は自然の異変や自分を食べようとする敵の脅威にいつも晒されて生活するということはなくなったので、脳はすぐに戦闘態勢に入る必要(身構えるということ? 弱い動物は逃げるということ)はなくなった。だけど、平和になり生活が近代化するにつれて、その脅威が何で、何を避ければいいのかがわかりにくくなっちゃったのかな、と思う。
今は人対人、人間関係のふるい分けやら、情報のふるい分けにこのフィルターは発揮されているみたいだ。
上野公園でドバトを見ていたらわかるけど、ドバト達は撒き餌を食べながら常にけん制し合っている。少しでも弱い鳩がいたら胸を膨らませて自分の近くから追い払おうとしていて、自分がちょっとでも餌を多く食べるために威張って頑張っている。それは生きるということの本質のような気がする。ドバトの考えと行動は常に自分が生き残ることそのものに向けられているのだ。
ドバトは自分のことを客観的に見る必要なんかないし、そこまで脳が発達していないから、そんな自分を恥ずかしいとは思わない。飼いならされた鳩ならここまでトゲトゲしないだろう。あれがドバトの尊厳なのだ。

秋葉原はもっとすごい。
行動っていうか、もう、見た目に「変」な人はいっぱいいる。すごい年が離れてるけど、明らかに親子じゃないだろうカップルとか…。私には女の子の親の目線があるし、アメリカ映画の激しいストーリをたくさん見ていて、猟奇的なショッキングなエンタティメントも好んで読んでいた。だから、想像力が膨らんじゃって、すごい気になっちゃう。
(これが、自分の調子によっては楽しくて気にならない時もあったのだから不思議)
かわいいメイドさんの格好をして客引きをしている若い女の子のことが気になってしまう。最近「お散歩しませんか」って誘うお仕事とか、耳かきをするというような、個室や人がいない所で怪しい人と二人きりになるようなお仕事はなくなったみたいだけど、でも怪しい大人との接点は常にあるのだ。この女の子達と、今芸能界でトップを走るアイドルグループの違いはどこにあるのだろう。私にはその違いまではわからない。
秋葉原は個性がぶっ飛んでて、自分の好きなことに偏っている人たちが安心して自分を出せる場所って感じがする。

平日の朝、新宿区役所に行く時、歌舞伎町で見た白人の女の子2人もすごかったな。アニメのコスプレをしていたのだけど、身体はすっかり大人な感じでかわいさがなかった。だいいち、たとえ歌舞伎町でも新宿の平日の朝にマッチしてなかったから目を引いた。たぶん、彼女たちには新宿もアキバもただの日本なのかな。お酒に酔っているのか? フラフラな感じで、これからホテルに帰るのかな~~。と思った。
日本人は日本人だけに通じる、言葉にはできない暗黙のルールみたいなものを持っているのかなと思った。日時と場所と恰好とかをちゃんと区別していて、つまり、TPOをわきまえてるってだけなのかもしれないけれど。東京ってそれぞれの場所の分化の仕方がすごいな、って思った。
きっとどこの国にもどの場所にもそのルールはある。
ただ、私は日本人で今自分の周りしか見えていないから、見えていることしかわからないってだけの話だ。
旅行が好きな人は、その場所場所の違いを楽しめる人なのだろう。
それが楽しめるかどうかは、自分の所持金、好奇心と精神のバランスによるのかな。
私の場合、老後の心配があるので一度にお金をたくさん使うことに不安がある。だからフィンランド人の友人が誕生日に「フィンランドにおいで」と誘ってくれた時、全然行く気になれなくて、何とか理由をつけて頑として行こうとしなかった。旅行の話題にもあまり乗れなかった。だから、彼女は私のこと「旅行恐怖症」って言っていた。それをちゃんと説明するような英語力は私にはないから、それでかまわなかった。
人の感覚の違いって国を超えているとさらにすごくおもしろくて笑える。
東京は日本人であってもその場所場所で異文化体験ができる貴重な町なのかもしれない。

先日、秋葉原で友達と会った時、その友人との会話でまた改めて気が付いたことがあった。
彼女は、隣に座ったカップルの様子が気になっていたみたいだ。
そのカップルが席を立った後に私に話しかけた。
「ねえねえ、今のカップル見ていた?」
私は、ちっとも気にしていなかった。
「ずっと二人で座っていたけど、お互いにケイタイやっていて、何も話すでもなくて、違う物をそれぞれにたのんで、食べて、それで帰っていったよ。おもしろいね」
う~ん。
彼女は大学という教育現場で若い人をよく見ているから、そういう話を聞くのがすごくおもしろい。私は彼女との話に集中していて、隣のことなんかあまり見ていなかったのだ。だけど、なんとなくその様子には気が付いていた。そして、それは私には特におもしろいことでも変わったことでもなかったのだ。
すごい、友達との感覚が違う、そのこと自体がすごくおもしろかった。




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