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4.嫌いな言葉 [精神と言葉]

ときどき、嫌いな言葉がある。
まず、「自分探し」。
自分探しって何? って思ってぞっとする。
同じく、「等身大」って言葉もあんまり好きじゃない。
ニュアンスはわかるのに、言葉自体に好き嫌いがあるというのは、おもしろいことだ。

だけど、私が約60年間生きてきて、思考の中心を占めてきたものは、自分探しだったんだ~、とあきれた。それに、常に等身大。だから、私にとっては、「あたりまえ」と思われることを気取って表す言葉に嫌悪感を抱くのかもしれない。

自分自身の精神分析はとりあえずは、終わった。
それが、意外に単純だったので、びっくりした。
自分の「嫌悪感」の根源には、父の存在があるのだな、とわかった。

父はいつも夢見ている人だった。すごく優しい人だった。すごくいい人だった。
中学生の低学年くらいまでは、確か、父のことが大好きだった。父の作ったお話を聞くのも好きだったし、父が若いころの話しを聞くのも好きだった。
絵描きになりたかったのに、祖父に「それでは生活ができないからあきらめろ」と言われたと言っていて、かわいそうだな、と心から同情していた。

ところが、その後どんどん嫌いになってしまった。
また、父はほら吹き男爵のような人で、誇大妄想のようなことを語り、いつも特許を取ることを考えていて、自分で見つけてきた得体の知れない物を人に勧めたり、親戚の人を自分の事業に引っ張り込んで、迷惑をかけたと思う。事業の失敗で借金も作った。そんなふうにいい加減に見える部分は私の嫌悪感をさらに募らせた。
私ただ夢を見ることをやめて、実際に目で見える物、触れるものに伝わって行こう、と思った。
父の甘さ、優しさも私の嫌悪するところとなり、それは父が亡くなる時まで消えなかった。
父は私のことをかわいいと思い、好意を寄せてくれていたみたいだ。親子の愛情で好意というのもなんだけど…、でもそれがすごく気持ち悪かったので、それ以上の言葉を使いたくない。愛情なんて、きれいごとだけでは表現できない。垂れ流しにされると醜悪でさえある。
娘を大事に思うのなら、なぜ、昔は人の娘であった母を大事にしないのか、といつも腹が立った。母はきれいごとや泣きごとを言わない。借金を返済するために働き始めた時も、そのことについて一言も文句を言ったことがない。働くことに喜びを見つけていつもそれを楽しそうに話してくれた。

私はある時からは、「母の連れ合い」であるということで、父を受け入れてきた。よくいう言葉では「母に免じて」受け入れてきた。子どもが生まれてからは、ひと月に一度は両親で泊まりに来てくれた。そういう時は、いちいち嫌悪感を伴うことはなく、快く来てもらった。旅行にも一緒に行って、楽しい時間を過ごした。
ある日、母から電話があり、母の都合が悪かったのだったかな? とにかく、父が一人で訪問したい、と伝えてきた。たぶん父は私に直接言えなかったのだろう。
私は、父が一人で訪ねて来ることを拒否した。
客観的にみると、まったく、「私って鬼のような奴だな」と自分で思ったけれど、そこを譲る気にはなれなかった。
でも、母の入院中には、母を見舞った後でそばやで父とよく夕飯を食べた。父は果物をむいては母の病室に届け、母の面倒をよくみてくれた。手先が器用で料理が好きで、とてもマメな人だったのだ。
父は私と食事する時、すごくうれしそうだった。私はただ父の話を聞いた。決して嫌な顔はしたことがない。
父は独特の比喩を使い、詭弁を弄する人だったから、父と議論すると話がどんどんずれていって訳がわからなくなってしまう。話がかみ合わないのはわかっていたから、ただ聞くことだけをした。高校までは納得できなくても父の言いつけを守って、バイトもしなかったし、友達と旅行にも出かけなかった。でも、大学生になってからは、父の言い分を聞きはしたが、守りはしなかった。

弟には、いつか私と飲みに行きたいと言っていたみたいだし、私の夫のことを気にいっていなくて、いつか絶対に私が離婚して帰ってくる、と亡くなる前まで信じていたみたいだ。
父は結局、自分の生活に満足することはなく、死ぬ直前まで特許のことを考えて、自分のことだけ考えていて、夢みたいなことばっかり言っていた。
父が亡くなる前は、娘として毎日のように見舞いに行っていて、父が死んで行くのにもつきあった。でも、ちっとも悲しくなかった。ただ、この世から消えて行く命というものが切なくて、少し涙が流れただけだ。

私の中にある夢想にふける部分、脳の器質のようなものも、父から由来しているのだな、と感じる。いろいろ描いたり作ったり、料理したり、書いたりまとめたり、思いついたりする傾向も、全部父から譲り受けたものだと感じる。だけどそれがいったい何になるのか? と思う。それはただ無意味に私の中にあるものだ。

ときどき父が夢に出てくることがある。夢の中でも父は自分のことしか考えていない、甘ったれた人なのだ。ただ、笑ってしゃべらないこともある。でも、そういう人なんだからそれでいい。別に嫌でもなんでもなくて「夢に出て来たな~」って思うだけだ。ただ景色を眺める感じに近い。

最近、父に担当してもらいたい役割を見つけた。私の一生という物語の中での悪役だ。
父一人に私の物語の悪役を引き受けてもらうと、今まで父に由来することで起こったあらゆる不幸も、理不尽な力で起こった不幸も、全部父のせいということで解決がつくのだ。そして、私に関わって不幸になった人がいたとしたら、それも全部父が引き受けてくれるのだ。

夜、ふと、そこに父がいるような感覚を抱く時があったので、父に「よろしくお願いね」と伝えた。父のおかげで、なんだかあっけなく私自身の物語はハッピーエンドで幕を閉じた。だけど、まだ命が続いている。せっかく身軽になったのだから、後は楽しんで適当にやっていこうと思う。

まったくバカみたいだけれど、私がまだ、考え続け書き続けているところをみると、結局私には私自身というものしか残されておらず、どうやらそれだけで、生き続けて行けそうだということだ。どうやら私は、父から「生きている」部分を引き継いだらしい。

今、20歳近く若い女性と接する機会があると、本当に「良い子」が多い。彼女たちは家続的な問題があっても、それを自分の中の毒として抱え込まず、他のことに振り替えて、誰のせいにもせずに「しなやか」に生きている。賢くて仕事ができ、周りとの調和を考えて、仕事で起こった摩擦も自分の中に溜めこまない。精神的に大人なのだなと感じることが多い。
それでも会社で何かあると自分を責め、律して、すごくまじめに悩んでいるのだ。私もずっと「良い子」だったのだな、と思った。ただ、自分の毒の発生理由がわりに単純だったので、特に社会に出てからはどんどん越えやすくなり、生きやすかったのかな、と思った。
幸い、学校生活、社会生活、結婚生活では人間関係に恵まれ、いつも誰かに助けてもらえた。だから子供のまま、自由なままでいられたのだなと思った。
そういう周囲の人が支えてくれるということが「無償の愛」なのだと思う。映画で高らかに歌って、教えてもらうまでもなく、いつも私はこれに守られて支えられてきた。

「あたりまえ」と思っていること、「簡単に割り切れる」ことが人によってあまりにも違うとわかる時、本当にびっくりする。それは自分には持てなかった、他の解決方法を教えてくれる。
恵まれすぎているとそれが思考の壁=限界になるみたいだ。
養老先生が仰っていた「バカの壁」ってこういうことなのかなと思う。人から教えてもらわなければ、いつまでも気がつくことはできなかったのだろうな、と思う。もちろん今だって気が付いてこないことがたくさんあるに決まってる。それが何? ってのは気が付くその時までわからないんだからあたりまえだよね。
その瞬間を楽しみにしようっと。






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