1、夏のはじめ ① [豚田豚饅頭店]
「ああ、オレはほんとうに一人ぼっちになっちゃったんだ…」、とブタのブッキはつぶやいた。
ちょうど二週間前にブッキのオヤジが倒れて…、亡くなった。それは突然のことだった。
ちゃんと心の準備ができていなかったからなのか、それからというもの、ブッキにはやる気というものがなくなってしまって、朝は一応起きるのだけれど、だいたいは一日ぼんやりしたり、ゴロゴロしているばかりになってしまっていた。
ここ、「豚田(とんだ)豚饅頭店」は、このあたりではたった一軒の豚まんじゅう屋で、中身の入っていない白まんじゅうだけを、ずうっと作って売ってきた店だった。
ブッキのオヤジが一人でやってきた店で、ブッキも小さい頃から豚まん作りを手伝ってきた。でも、オヤジがいなくなってからというもの、この二週間、ブッキは厨房に足を踏み入れていない。だからもちろん店も開けていなかった。
元気な頃のオヤジは、いつもぶつくさ文句ばかりを言っているブタだった。
「ああ、めんどうくさい。めんどうくさい。オレ一人なら何にもしないのに…。子どもに飯食わすんだ。働かなきゃなんねえ。豚まんを作らなきゃなんねえ。ああ、めんどうくさい。めんどうくさい」
そんな調子の文句だった。
ブッキはそんなオヤジの文句を聞いて育った。そしてそのブツブツ文句をを聞くたびにしょぼくれた気分になったものだった。
「もうオヤジの文句を聞かなくて良くなったんだな…」
畳の部屋にゴロゴロしていたブッキは、ふとそう思い、むっくりと半身起きあがった。
それは、ブッキがずっと願っていたことだったじゃないか! なのに、いざ、そうなってみると、何か欠けているような、もの足りないような気がしている。どうしてなんだろう。
オヤジの繰り言はいつもいつも重たくて、痛くて、家の中にどんよりとたまって、ブッキを押しつけてくるようなものだったじゃあないか。
それに…、オヤジはよくいらいらして、厨房のあちこちを歩き回っていたっけ。いつ叱られるかと思って、ブッキはそれを、びくびくしながら見ていたっけ。もうそんなこともなくなったのだ!
そうなったら、どんなに気分が軽くなるだろう、とよくブッキは想像したものだったが…。そうなってみても気分なんてちっとも軽くはならないのだった。どうしてだろう。
ブッキはそのままのかっこうで、またしばらく思いを巡らせた。
オヤジはよくこんなことも言っていた。
「まったく、何から何まで一人でやんなきゃなんねえ。昔は母ちゃんも、ブッキの姉ちゃんもいたのにな」
その母ちゃん、姉ちゃんがどうしてしまったのか、ブッキは知らなかった。ブッキがまだ赤ん坊の頃に、この家を出て行ってしまったのだ。それからはずっとブッキと親父の二人暮らしだった。だからブッキはお母ちゃんと話したことはない。
オヤジが、母ちゃんと姉ちゃんのことを言うたびに、いつもいつも気になってはいたのだけど、面と向かってオヤジに質問することは、とうとうできなかった。オヤジがいなくなってしまった今となっては、確かめる術もない。
ブッキは、オヤジのブツブツ文句の中から、母ちゃん、姉ちゃんに関係のある断片を拾って、自分なりの思い出を作ってきた。オヤジは一言として、楽しい思い出を語ることはなかったのだけれど、なぜかブッキの中では、ほんのり優しい母ちゃん、姉ちゃんの思い出になっている。
でも、母ちゃんはなんだってブッキだけ置いて行ってしまったのだろう。そう思うと、ブッキは悲しくなってくる。まだ小さい赤ん坊だったのだもの。背中にでも背負って、こんな暗い豚まんじゅう屋から、一緒に連れて行ってくれたら良かったのに…。
そこまで思うと、母さんへの思いも苦いものになってくる。だから、ブッキは考えるのをやめる。優しい思い出のところだけ、何度も思い出せばいい。
オヤジに叱られるたびにいつもブッキは思った。「あーあ、オレはこの家のやっかいものさ。どこにも居るところがない!」
今は、その家のすべてがブッキの居場所になったのだ! どこをどう使おうと誰も文句を言わなくなった。それなのに、ブッキはちっとも楽しくならなかった。家はぽかんと広いばっかりで、その広いぽかんとした感じがブッキの心の中にまで続いているのだった。
「ああ、オレはほんとうに一人ぼっちになっちゃったんだ…」とブッキは再び口に出して言ってみた。
ブッキの声は、家の天井や壁にすぐに吸い込まれてしまう。ほかには何も音がない。
ここはタカンダ町マチカネ坂ボウボウという場所で、店の後ろはキタヤマのヤブへと続く登り口になっている。この家を取り囲んでいるのは、そのヤブのしーんとした静けさだけだった。
ボウボウにはこの一軒しか家がない。店の前にはタカンダ町の中心に下りて行くマチカネ坂が続いているだけだ。だからこの店は、タカンダ町の中心からはだいぶ高い場所、キタヤマを見上げる場所に位置していた。
半身起きあがってまたしばらくぼんやりしていたブッキは、ふうっと大きなため息をついて、やっと立ち上がった。ずっとゴロゴロばかりしていたので、身体のあちこちに油切れがしてるみたいで、ギシギシ鳴ってしまいそうだった。
まずブッキは身体全体を点検するように、手足をおそるおそる動かしてみた。動く、動く。身体が少しずつ溶けてくるような感じがした。
次に首をぐるりと回してみる。それを何回かやってみる…、と、畳の端っこに落ちていた写真が目に入った。よっこらしょ、足を踏み出して、その写真を拾ってみる。それは家にたった一枚だけあったオヤジの写真だった。
その写真はいつどこで撮ったのかもわからない。写真の真ん中にオヤジが難しい顔をしてどんと突っ立っている。いつも着ている調理用の白衣を着ている。腰に手を当てて威張っているように見える。
さてどうしたものだろう。
ブッキはとりあえず、その写真を写真立てに入れて、厨房の棚の上に飾ることにした。オヤジにはやっぱり厨房が似合っている。
ブッキは畳の部屋から厨房への引き戸を開けた。すると厨房から豚まんの匂いがやってきてブッキを包み込んだ。
この家では厨房の方がずっと広い。寝起きをしている畳の部屋の四倍はある。二週間も豚まん作りをしていないというのに、厨房はどこもかしこも、豚まんの匂いでいっぱいだった。
写真を置こうとした棚の上には、オヤジの亡くなった次の日に届いた夜光新聞が載っていた。ブッキはついでにその新聞も広げてみた。その新聞にはオヤジの訃報記事が載っていて、ブッキが今持っているのと同じオヤジの写真が載っている。そう、この記事のためにブッキはこの写真を探したのだった。
夜光新聞にはこのオヤジの写真の横にこんな記事が載っていた。
『豚田仏之助氏(年齢不明)死亡。豚田豚饅頭店の厨房で、仕事中に倒れる。豚田豚饅頭店はキタヤマの入り口、タカンダ町マチカネ坂ボウボウにある。中身のないおいしい白まんじゅうで有名だ。豚田豚饅頭店は、引き続き、息子の豚田仏太郎さんがやっていくつもりとのこと。でも、今のところいつから始めるかは不明』
それが新聞の半分くらいの記事になっていて、そのほかには天気のことしか書いていない。夜光新聞とは、そんな新聞だった。
ブッキは写真と新聞を並べて、棚の上に飾ってみた。写真の真ん中に写るオヤジの目を見ることはせずに、周りに写っているぼんやりとした灰色の空に、ブッキは話かけた。
「あーあ。オヤジ、オレはどうしたらいいんだ? 何をどうしたらいいんだか、見当もつきゃしない」
その言い方はブツブツと…、オヤジそっくりの言い方で、厨房の床に落ちて溜まっていくような感じだった。
ブッキには豚田仏太郎というちゃんとした名前があったが、だからこんなにブツブツ文句ばかり言っているのかもしれない。ブッキのオヤジが豚田仏之助といい、やはりブツブツ文句を言っていたことを考えると、どうやらこの名前がいけなかったのだ! その「仏」というところをブッキも引き継いでしまったのだから。
ブッキはしばらく写真の前で手を合わせてから、踏ん切りをつけるように大きく深呼吸をした。そして厨房をぐるりと見回して、うんざりしながら白衣に手を通した。
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