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捨てる写真(追伸)いろいろ思い出してきたこと [古い記憶の整理]

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古い写真を整理したことで、いろいろ思い出すことなどがあって
わりにセンチメンタルな気分になりました。
それをまとめてみました。

「銭湯」
物心ついた頃、
家にはテレビがなく、洗濯機は絞り機付きのものだったし
電話は表通りのお菓子屋さんから「呼び出し」てもらっていたし
冷蔵庫の中を冷やすために氷屋さんから氷を買っていたし
どじょうとかうなぎを天秤棒で肩から下げて売り歩くおじさんが
横丁に腰を据えてどじょうを切り裂いていたし
新宿までは都電で行ったし、
トロリーバスで品川に行ったし
小学校の低学年で家が新築された時まで家に風呂はありませんでした。

祖父が引っ越しして新しく建てた4階ビルに住んだ時、
エレベーターを付けたのに、
「お風呂を作る」という発想はなかったのです。
1960年頃でしょうか??
祖父母の家から歩いて行ける、新宿三丁目界隈にはまだ3軒の銭湯があって
いつも行くのは厚生年金会館近くの銭湯だったけれど
そこがお休みだと、末広亭の近くにも銭湯があり、
黒いお湯だったので「醤油のお風呂」と呼んでいました。
今考えると、距離的にはこちらのお風呂の方が近かったのですが
もしかしたら料金が違っていたのか?
近所の人が行く生活の一部としての銭湯というよりは、
近くに遊びに来た人のための銭湯だったのかもしれません。

祖父はお風呂に行くと、ふんどし一丁で、
その上に半纏を羽織って帰って来ていました。

今は厚生年金会館もなくなってしまったし、
 (ここで「コント55号の世界は笑う」という番組の公開録画をやっていました。
  その後始まったドリフターズの「8時だよ全員集合」の裏番組でした。
  そのコント55わくは
  その後「俺たちひょうきん族」になったわくです。たぶん)
  

祖父の死後、祖父の家ではユニットバスを作ったのですが
祖母はこのお風呂で亡くなりました。
その後も、ぺんぺんは銭湯が好きで、どこか四谷の方まで行っていました。

祖母はどんなことがあっても毎日お風呂に行く、という人で
5人の子たちが洗ってもらう順番を待って、立って居眠りしていた
という話を聞いたことがあります。
子どもが風邪をひいたりして熱があっても連れて行っていたということです。

Fおばさんの家でもずっとお風呂がなくて、
カナダの従姉妹が里帰りすると、
家族そろって銭湯に出かけていることがよくありました。
その従姉妹は一人目の息子は日本の、その従姉妹が産まれた新大久保近くの日赤で産み、
しばらくは彼女の実家、Fおばさんの家で暮らしていました。

カナダ人のだんなさんと、赤ちゃん連れて銭湯通い。
まず従姉妹が赤ちゃんを入れて、男湯と女湯をつなぐ通用口のようなところで赤ちゃんをだんなにパス。
外で待ち合わせて帰って来ていた、ということです。

その後、Fおばさんの家が建て替えられ、お風呂が付くまでは
家族そろって、一緒に四谷の方まで銭湯に行っていました。

今では信じられないような、夢の中のできごとなのか?
と思えるような世界です。

「情報量」
なぜだかはわからないのですが
なぜか?
ずっと情報とかデータに関わる仕事をしています。
今思うと、学生時代のアルバイト、「ぴあ」での仕事もそうだったなと不思議な感覚に襲われます。

私がバイトしていたのは
1974年から75年にかけてのたった1年間なのですが
その当時はどの映画館で何の映画をやっているかという情報をまとめて掲載している紙媒体は新聞くらいしかなかったわけです。
しかも、新聞には全部の情報が出ているわけではなく
上映時間が出ていないことも多く
しかも、タイトルなども省略して出ていたりして
ちゃんとした情報を得るには映画館に直接電話するしかなかったのですよね。

だから、四谷文鳥堂にて、ぴあを発見した時には
もう、本当にうれしかったのです。

アルバイトでは、映画館に電話して上映の情報を得て
それをまとめる、ということもやっていましたが
最初は1ページ2段組でした。
それから、どんどん集められる情報が増えたようで
私がいる1年の間に、1ページ7段組までになりました。
売れ行きもうなぎのぼりで、
最初は返本が多く、出版部数を「公称3000部」とか言っていたのに
数年後に聞いたら、たしか、有名な大きい書店1店で「5万5千売れている」とか言っていました。
こういう数字は書いておいたわけではなく
聞いたことをなんとなく覚えているというだけなので、
検証してはいませんが。

また、当時のぴあの人たちは大手取引店を経ない販売というのを夢見ていて
マルイはどこの駅にもあるから、
「いずれ、マルイだけに置いてもらおう」
みたいなことも言っていて
「マルイに行けばぴあがある、ぴあが欲しければマルイに行く」
みたいなことをお題目的みたいに繰り返していました。

でも、それからすごく大きい会社になってしまって
今も会社はあるようだけれど、
紙媒体のぴあは無くなってしまったわけで
その間の情報処理能力の凄まじい進歩を思うと
眩暈がしそうです。

仕事ではずっと書誌情報に関わってきましたが
昔は電子媒体の「容量」に限界があったため
情報量を軽減するために、英文の雑誌名を略語で書くことが多かったのです。

この、略語というのが、具体的な決まりがあるわけではなく
慣習によって略されていて、基準が一定ではないのですよね。
コンピューター処理になってからも、
同じ雑誌なのに違う略し方をしているために
同じ雑誌かどうかを見極めることが難しくて
「重複」する可能性が常にありました。

自分のまとめる情報内での「略語」をどうするかという問題も常にあって、
気が付いたことはメモしておいて
それについてまとめながら作業するということずを~~~っとやっていたのに
情報を収容する容量は年々増え。
いつのまにか、雑誌名を略する必要すらなくなり
今まで考えてまとめようとしていたことが、すべて不要になってしまいました。

扱っている雑誌の種類が1000件とかになるため
略語で扱っていたのものをフルネームと対応させるという作業は大変なことでしたが
そこを過ぎてしまったら仕事はどんどんすごく楽ちんになってしまいました。

息子と話して思うのは
何が普通か、とか、常識かというこということ自体
感覚的に違っているのです。
概念自体が変わってしまったのですよね。
だから、すごく具体的に話をしないといろいろ通じないことも多いです。

これからは言葉をできるだけ正確に選んで、
「伝えたいこと」が不特定多数の人に具体的に通じるようにする
という作業がもっと必要になるのではないでしょうか。

これからこの世界を生きる若い人は大変だな~~。

がんばって欲しいです。


おしまい。



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