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気まぐれ番外編:パワハラ連鎖 [精神と言葉]

パワーハラスメントとは、本当に厄介なものです。
それは、頭ごなしに対人の存在を否定する力なのだと思います。
その対象となる人をつぶすまで追い詰めないと、気が済まないような、怒り、嫉み、憤りなどを含んでいるものなのでしょう。
その理不尽な力で否定された人は、思考回路や感情の整理、記憶の整理に歪みを起こすのかもしれません。そして、受けた怒りを解決できないまま、持っているしかないのかもしれません。
若い頃にその回路に歪みを持ってしまった人は、その後、何かの解決をする時、思考する時にストレスがかかるようになるのではないかと感じています。
それが、トラウマとか、呼ばれるものなのかもしれませんが。

組織(家庭も含む)や企業内では常に人と人とのやりとりで摩擦が起こっていて、それがパワハラという形に育って行く場合があるような気がします。
そのパワハラ行使者が上司や年配者や権力者であった場合、それはかなり悪質です。
その人は『仕事』や『善意』という隠れ蓑をかぶって、自分の嫌悪を堂々と『怒り』の形で特定の個人に発散します。
仕事の失敗などは明らかな間違いなので、その機会を逃さず、嫌悪パワーを炸裂させます。
歪みを受けた人が、その歪みをすぐに他の物に変換できる場合は、たぶん、その場は問題なく過ぎるのでしょう。
また、受けた人が、その組織での自分の場所を守る方が大事な場合は、無視するか、受け流してうまくたち振る舞うしかありません。それを目撃した人も同様だと思います。
そのパワハラをもろに受けて精神に障害が残った場合、それを告発すると、組織自体のバランスを崩す事もあるだろうから、その組織につながる人の関係を考慮した場合、慎重にならざるを得ないし、だいいち、その因果関係を正しく証明、説明できるかどうかはかなり難しい問題となるように思います。
説明しても、受け入れてもらえない場合だってあるだろうし、特定の個人を正面切って否定するにはかなりのストレスもかかると思われます。
とにかく、そのパワハラ行使者は、人を歪めるのです。

友達のNちゃんが遭遇したのは、アカハラでしたが、20代の始めくらいだったから、まだそういう概念はありませんでした。
今、想像してみると、かなりきつかったのだろうと思います。
かなりひどい目に遭ったようでしたが、私はその当時、助ける事もできなかったし、知識もなかったので、対処方法を一緒に考える事もできませんでした。

きっと、Nちゃんの記憶の中には、そのできごとを通して解決できなかった怒りも残っているのだろうと、最近、思うようになりました。

怒りって、なんか、記憶の中にあるほかの怒りも呼び覚ますところがあるような気がします。
Nちゃんと文通していた時、たぶん、Nちゃんには悪気はなく、善意だけがあったのだろうとは思いますが、私の行動を諭すような、批判するような言動が重なり、それが過去に私が示した好意についての批判にも及んだので、私は不快に思いながらも、友達だと思う気安さから自分の思うとおりに返事を書いたのです。そうしたら、それがNちゃんの怒りを引き出してしまったようなのです。
その怒りをぶつけられて、今度はこちらが混乱してしまい、自分の怒りを誘発し、Nちゃんにそれをぶつけてしまいました。
つまり、これはケンカだったと思いますが、ケンカと気がつくまでに数日かかりました。
そして、このケンカがあったから、その前に急性精神病を引き起こした他の友達とのやりとりがケンカだったのだと気が付いたのです。

今の若い人は、『偽善』というものに、敏感なような気がします。
もしかしたら、昔は私もそうだったのかもしれませんが…? いつごろからか、私は、『善悪』という判断自体に疑問を持つようになりました。
それは、たぶん、その人ごと、その時ごと、場面ごとの定義だけの問題なのだと思います。
結局自分を動かし、判断の基準になるのは好き嫌いじゃないかと思います。
嫌いな物、事、行動、言動、人には嫌悪感が働くのです。
それは、私の場合、『怒り』を感じた記憶につながる『何か』なのです。『何か』って? その時に受けた言葉、情景、感覚なのかな? まず瞬間的に嫌悪感が起こり、それを排除しようと怒りのスイッチが入るような気がします。
この嫌悪感について、ちゃんと説明するのは不可能です。
それは自分の経験を通して、積み重なっているもの、としか言いようがありません。
以前、嫌いな言葉について書いたのですが、私の嫌悪の根源は、たぶん父の存在にあるのだろうと思いますが、それについては父が亡くなった時に整理がついているような感じがします。そして、その判断基準の上に、新たな基準が積み重なり、もっと複雑になっている感じがします。
それは、あらゆる状況で常に「それを受け入れていいかどうか」を探っている自分の思考のツボのような部分です。

そういう嫌悪感が生まれた場合、それを起こすものを排除するかどうかは、その人の自由だと思います。
だけど、社会とか組織の中でその排除がどのように働くのかは、かなり複雑で難しい問題になるのだろうと思います。単に不快として表現するだけならいいのですが、人に嫌な顔を見せる時にも、けっこうストレスがかかる場合があります。だから普通はその一瞬はこらえて、がまんすると思うのですが、ある人はその排除を『パワハラ』という形で表出するのだろうと思われます。

私には対人恐怖がありますが、それでも特定の個人に好感を抱くことがあり、また、個人が苦しんだり頑張ったりしている場合は、ねぎらいたい、応援したい、という気持ちが生まれます。
そして、気が向いて、きっかけがあればそれを表現し、行動したくなることがあります。
人がストレスをため込んで苦しんでいる様子は、見ていてわかるし、自分も苦しめられるから、少しでもそれを緩和したいと思っただけだったのですが。それは、今考えれば、ある意味傲慢な考えだったのかもしれません。
そういう行為をした時に得られる快感が想像できたから、やったことなのだと思います。
だから、受ける人にはそれが『偽善』と捉えられることもあるのでしょう。
好意の押し売りは、ある時には『余計なお世話』になるだろうし、ハラスメントと捉えられることもあるでしょうから。
その善悪の判断は、個人の成長と経験を通して、思考が言語として蓄積されて行く過程で築かれていく、個人の領域であり、自分の聖域なのだろうと思います。たぶん、ここが嫌悪をより分け行動に移す場所です。
たぶんだれでもそこを曲げてまで人に媚びたり、機嫌を取ったりすることはできないのかもしれませんし、曲げなければ曲げないことでストレスは生まれるし、曲げた方が楽だった場合でも、何らかのストレスはどこかに残っているような気がします。

自分のことを考えると、物事を受け入れる入り口はかなり広いと思うのですが、その核の部分が意外に強固だったので、自分が壊れたような気がします。
でも、それは壊れたように見えて、今、再生されているようです。
もう壊したくないので、ここに侵入しようとする人は排除せざるを得ません。
そこに侵入する行為は私にとってのパワハラです。でも、そのパワハラはパワハラの悪連鎖で起こっているようだったから、その背景を理解しようとして、苦しみました。
なるべくなら、直接接点のできる個人の存在自体を否定したくないし、嫌悪もしたくなかったけど、結果的に否定してしまうことになったようで、それが心の咎になっています。
でも、しょうがないです。

善意を善意として素直に気持ちよく受け取ってくれない人とは、うまくやれません。
疑うのはその人の勝手です。
そこは私の踏み込めない、相手の聖域だと思います。
それがかみ合うか、どこまで妥協できるのかというのが『相性』ということなのかもしれません。

不特定多数の他人がいる場所で、苦しみや辛さを身体から発散させることができるということは、つまりは自分の方が痛い、自分の方が苦しいという思い込みだと思いますが、そういう体感は相対的に表す方法がないから、人と比べられません。
でももしかしたら、それを公の場で出すことができるということが、すなわち、個人の抱える深刻さの度合いと考える事はできるのかもしれません。
それができる人は世界一不幸な人です。
でも、それは「one of the most unfortunate parson」ということで、最も不幸な人のうちの一人なのだと思います。だから、自分が最も不幸だと思っている人はきっとたくさんいるのでしょう。
でも、対人にそれが降りかかり、ハラスメントになるかもしれないという想像をせずに発揮できるのなら、もしかしたら、世界で一番幸福な人なのかもしれません。
それは本人の体感、思考ですから、発想の転換が起こらなければ、そのまま抱えているしかないのかもしれません。

自分のパワーは、なるべく人を傷つけない方向に変換、発揮できればいいのですが、他人というのは、想像を絶するほど違う思考経路を持っている人なので、まったく想定外の反応が返ってきて、思わぬ方向に進行するのですよね。
それが人付き合いのおもしろいところだろうとも思いますが、そこで「おもしろい」を共有できないのなら、やっぱり相性が悪いということになるのでしょう。
パワーを発揮するなら、ハラスメントにならないパワーにしたいけれど、その個人が私に向けた力もハラスメントになっていて、それを排除しようとした私のパワーもハラスメントになってしまったのかもしれません。
この場合、ケンカには発展しませんでしたが、後味の悪さが残りました。
ほんと、悪循環。
まったく難しい問題です。

昨日、私に不快を与えたその人は、お菓子を持って、あやまりに来てくれました。私はそれを受け取りました。
その人の精いっぱいの誠意を感じました。
でも、一緒にまた個人的な時間を共有しようという気になれるどうか…、わかりません。
その人の幸せを心から祈っています。これは本当の気持ちです。
その人はとても聡明な人です。でも思春期にいじめを受け、ものすごく辛い目にあったみたいなので、理不尽に怒られるとその時の記憶が蘇ってしまうみたいで、そこでパニックになるようです。そして、仕事に気が入らなくなり、集中も難しくなるような感じがします。それがまた新たな失敗を生むのでしょう。
私はその部屋でパワハラを行使する上司の理不尽さに怒っています。そのパワハラ人は「アンガーマネンジメント講座」も受けに来ていました。だから、自分のパワハラ癖について自覚があるのかもしれません。
一時、私が告発したほうがいいのか、迷いました。私はその組織内で失うものもなく、また、たぶん、私は疎外されません。でも、当事者でないのですから、もうこれ以上余計なおせっかいはしない方がいいと思いましたし、たぶん、パワハラを受けているその人は聡明な人だから、ご自身で対応できると思います。
今までにすでに歪んでしまっている思考経路、精神構造がそれを難しくしているのかもしれません。
でも、来年度働き続ける意思表示もされたようです。そこまでのストレス受け、ためていても、そこで働こうと思う気持ちは立派だと思いました。
私にはできないことです。
精神力って、人によってすごく違うところで発揮されるんだな、と感じます。

難しく考えて、バカみたいだと思いますが、難しく考えたいのです。
自分の行為を肯定して、自分を慰めたいのです。
自分が楽になりたいのです。
その過程でかかわった人が楽になるかどうかまでは責任持てないし、自分の思考領域を超えているから、考えられません。
その人の経験や思考を共有するなんて不可能だから、できるわけないです。
私は苦しみたくないし、ストレスをため込めないのです。
『自分勝手』と非難されるなら、『そうですよ』としか言いようがありません。

説明欲とは、結局は自己満足を得るという結果が欲しいというだけで、単なる言い訳ですが、
自己だけでも満足させられれば御の字です。
おかげさまで、ぜんぜん傷つかなくなりました。
ただちょっぴり、悲しく、残念に思っています。少し心が痛いです。
そして、すっきりするまでにはまだ時間が必要です。職場が少し憂鬱な場所になりました。
それは、そのやりとりのあった相手と、パワハラ人とも、まだこの先対面する可能性があるからです。
でもまあ、きっと会ってしまえばどうということはないのだろうと思います。

ただの屁理屈婆になりました。
感謝。



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