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気まぐれ番外編:「生き」「抜く」 [精神と言葉]

 「抜く」って言葉だけを使うと、ちょっと下品な感じがするけど、これってつまりは生きる衝動とその発散のことで、それが快楽の原点という気がする。
 カルガモの求愛行為を見ていると、リズム合わせのような感じで、カップルがうなずきあって、お互いに高まるリズムを確認し合っているように見える。途中でリズムが狂うとまたやりなおしだ。そして、「抜く」行為は一瞬の出来事だ。
カルガモの一羽ずつがどう違うのかを認識できないから、その行為のあったカップル同士がその後どうしているかを確かめることはできないのだけれど、でも、行為の直後はお互いすごくシラっとしていて、もうすっかり赤の他人って感じだ。
 かなりあっさりしている。
 でも、結局、生きるってそういうことなのじゃないかと思うのだ。
 その「抜く」一瞬のために生きているだけなのだ。そして、「抜いた」結果子どもが生まれる時もあるってだけなのだ。そして、あとは食べて糞して死ぬだけだ。
 どうにか「抜く」ためにいろいろ努力をするってことが生きるということみたいだ。
 人間って思考が発達しすぎちゃって、リズム合わせ自体が難しくなってしまったのかもしれない。だからリズムなんか関係なしにただ「抜く」職業ってのが発達してて、それは快楽の根源を支えているから無くならない。
快楽指数というものがあったとすると、たぶん、多くの男性にとっては「抜く」ことが快楽指数満点って感じなのではないのか?と想像している。いつも快楽指数満点だったらその方がいいのかもしれないけれど、そう簡単にいつでもできるわけではない。でも、それを得たいという衝動が生きる動機づけになるのかな?
「多くの」と書いたのは、「抜く」行為の前にまず「抜く」状態にならなければならないんだけど、思考(精神の成り立ち?)が邪魔して、「リズム合わせ」の前にまず「抜く」状態になるってことが難しくなっちゃっているんだろうな、って感じがするからだ。

 女性の場合はちょっと複雑で、まず受けるところから始まるし、リズム合わせによっては必ずしもすっきり抜けた感じにはならないから、その辺どうしてもまわりくどくなってくる。でも、それは結局は、抜ける状態になることが難しいってことで、そんなの個人の成り立ちによって違うに決まっているから、考え切れない。女性だってリズム合わせが合ったあとにちゃんと抜ければ、快楽指数満点だろうさ。でもそれはお互い、一瞬のできごとだ。

 そういう「生きるための」快楽を得るツボが、脳の報酬系って呼ばれるところなのかな。快楽指数はいつも満点を得なくてもたぶん生きてはいける。でも、快楽指数が大きかった体験は記憶に残っていて、またその快楽を得たいという思いが生きて行くという動機づけになるのだろうな。こんなこと、わかりきっていることかもしれないけど。
たぶん、細かい快楽指数を積み重ねていくことができれればいいのだろうし、それが、なるたけ衝動の原点に近い快楽だとけっこう、お安く発散できるんじゃないか? って気がする。

 精神とは、「抜く」ことが形骸化することに伴い、衝動を発散するまでに伴う違和感をストレスとして抱えず、思考を持ってそれを解決しようとする試み、って感じがする。本来「抜く」のには相手が必要だったろう。その相手とは理想としては別性で、番になる相手ということになるのだろうけれど、今の世の中そんなに簡単に相性バッチリの相手を見つけられないし、見つかったと思っても一緒に暮らすうちに何かがズレてくる。たぶん昔からそうだったのだろうけれど、昔はマニュアルこそなかったけれど、型通りの夫婦という「神話」に近い形が強固にあったから、そのイメージを守ろうとする意志を強く持っていられたのかもしれない。
 その型を信じることができて、それを守ろうとすることで生き切れればそれで問題はないのだと思う。でも神代の昔から型通りにできない人は常にいて(まあ、あたりまえっちゃあ、あたりまえ?)、そういう人の精神は大きく揺らいでしまうから、「揺らぎ」でたまる鬱屈を抜くために、芸術なり文学なりに逃げ?あるいは信じ、それを自分の精神の防波堤として、その中で昇華する=抜ききるという願望、を叶えてきたのかしら?

 社会的に独立して生きて行くことって、ほんと、大変なことだな、と実感している。特に経済的に独立するということは至難の業だ。
現在、私が金を得るために売るものは「時間」しかない。もうすこし若かったら「春」も売れたのかな? でもそれを「売るもの」と認識したことはなかった。今から売れる?まあ、無理だろう。旬を過ぎてしまっているし、もう使い果たしてしまっている感じだ。
 それに「対人恐怖」があるので、行きずりの人とそういう行為をすることも無理だと思う。
 とりあえず、私の時給というものが、私の社会的価値だと考えていいだろうか?
 大した学校も出ていないし、なんの資格も才能も持っていないことを考えたら、今もらっている時給は自分にとっては充分すぎる評価だと思っている。だけど1年毎の契約を続けなければならず、その関係は不安定だし、一般的な生活水準を考えたら、けっこうギリギリな感じだ。ただ幸い、いい年して一人暮らしを始めたおかげで、だいぶ割り切っていろいろ切り詰めることができる。ガス、水道、電気などを使いすぎるのが怖いし、新聞も取っていないし、テレビも持っていない。固定電話もなく、1000円カットで髪を切っている。これから死ぬまでの間に、なんとか一人でやっていけるようにと思うと、自然に節約ができるようになった。
 自分の身の丈に合った生活しかできないから、それで行動できる範囲、消費にいくらかけられるかが決まってくる。

 個人の価値っていったい何なんだろうとこのごろよく考える。
 それは自分自身と自分と接点のある他人(家族も含めた自分以外の人という意味)との関係でしか実感できないものなのだと思う。
 自分が存在を知っている著名人も、知っているということでは接点になる。面識があるわけじゃないけれど、誰かが何かをしたということでニュースにでもなれば、それに共感したり、げんなりしたり、悲しくなったり、喜べたり笑えたりする。それがとりあえずの明日を生きる活力になることもある。だから実際に会えるというアイドルとの関係はもっと接点を強くするのだろう。
 リアルな隣人とうまくやって行けなくても、テレビの中の接点のある他人を見て笑ったり泣いたりしてそこそこ抜ければ、それはそれでいいと思う。

 国にとっての私の価値って何か? と考えると、まあ税金を払っているという意味では、私は働きアリさん一匹くらいの価値はあるのかしらね? そのアリさん一匹の価値を国に守ってもらえている? それって「基本的人権」ってやつ????
うむわからない。
「国」と考えると、まず政治家個人の顔が浮かぶ。あの人たちが私を守ってくれるだろうか? と考えると、とてもそうとは思えない。
世界に顔を晒していて、行動や言葉も丸見えなのに、不謹慎なんじゃないか? ってような発言をわりと平気でする人たちが多いよね? そこに人一人の命がかかった時に、自分の命を代償にして守ってくれるっていう人の顔は思い当らない。
 だいいち、政治家の仕事って何なの?
 エンターティンメントなの? 
 コピーライターかよ! って感じで言葉遊びをしていて、政策に修飾語を入れてみたり、妙な新語を作ってみたりして、目くらまし作戦かよ! って思う。
 何か新たに解決する問題が発生して議論することが必要になった時には、その議論のための「有識者」と言う人を集めて来なければ考えが出て来ないみたいだし、政治家だけの討論の場では、いつもお金のばらまき方や集め方のことばかりが問題になっているようで、ワインがどうたら、うちわがどうたらテレビでやっていて、だいたいが私利私欲と「公」の意味がわかっていない? っていう問題で突っつきあっていて、泣いたり怒ったりして、それがお笑いやコント番組じゃあないのだからちょっとうんざりしてしまう。シャレになんね~よ、って思う。で、責任問題に発展すれば、追及された個人の罪はだいたいはその個人が雇っている秘書って人が背負うことになるんだけど、じゃあ秘書のほうが決定権があるんですか? いつもわからない。この場合の自己責任の自己って誰? ライオン丸に聞きたい。
公の場で言葉尻だけを比べ、追及してどうしようっていうのだろうか。
 そういうもろもろは、私の考えるところの「仕事」には当たらないような気がするので、もし自分の払った税金の使い途を指定できるのなら、せめて私が払った税金はあの人たちにはあげたくないな、って思っている。せめて国会議事堂の中のお掃除をしている人の時給を上げて欲しいな。
私にとってはそういう人の方が価値ある人に思えるから。

 政治家の人に言いたいのは、国民のやる気を削がないように気をつけて欲しいってこと。
彼らはきっとアリさん一匹を守る気なんかないよ。それは確信できる。政治家に直に近づいてすねでもかじろうとしたら、一瞬で踏み潰されるだろう。たくさんのアリを振りはらっても、自分は良い所に住んで、良い生活をして、偉い人になっていたい人達の集まりに見える。
おめ~らのために働いているんじゃないよ、って思う。ほんとに。
 たぶん、生活は通り越しちゃって、壮大な宇宙的な気もちになっておられて、アリさんのことは見えないんだ。たぶん、神様のように国民を守る大きな自分像がおありになるんでしょう。きっとすごくいい人なんだと思うし、恵まれた家庭に育ち、ご自分も恵まれた家庭を持ちそれを守っておられる立派なお父さん、お母さん、息子、娘なのでしょう。
首相様に言いたいのは、政治家の筆頭として世に名前が出た時点でもう歴史に名前は残りましたから、一応夢をかなえたってことで、いいんじゃないでしょうか? ってこと。
 細かいことは大目に見ます。だけど、とにかく戦争だけはしないで下さい。
 キーワードだけで気まぐれに発言したような意味不明なことも現実になったことを考えると、なにか勢いづいちゃって動かしかねないし、周りは動いちゃう。目に焦点合ってないみたいだし、公の場での行動や発言がおかしい部分が見えてしまうので、どうぞ日本と言う船を船ごとどっかにぶっつけないで下さい。なんだかわからないけど、あなたの個人的な達成欲を国民を道連れに果たすようなことはしないで下さい。
 少なくとも私個人はあなたと一緒にクラッシュしたくないな、って思っています。
 まあ、ご自分の命もかかっていることだから、少しはとどまってくれるかしら? でも信用はできないよね。
 歴史歴史って言うけど、もうそんなの関係ないよ。
 言葉尻で自尊心を攻撃し合っているという現実を見たら、「歴史」として切り離して遠目に見て考えられるほどには、時間的な乖離がされてないってことなんじゃないの?????? ここはひとつ、もう割り切って、かの戦争で自尊心を傷つられておられ、まだ怒っておられる個人の方に、とりあえず土下座でもしてあやまったらどうなんでしょうか。だって、現実に、かの戦争という失敗から続いている現実なんですから。
経済事情が行き詰っているのは、どこも同じなんですから、身の丈にあった支出をして欲しいです。
 国内の個々人と政治の乖離が大きくなるほうが、こわいと思います。

 職業としての軍人ができてしまっている以上、戦場は無くせないのだろう。今、現実に戦地がある以上、そこを無視していられないのが人なのだろう。それに戦地では生きるという実感がより切実だからこそ、その反動で得られる充実感は日常で得られるものより大きいのではないかと想像してしまう。戦場と日常のギャップが大きいことが、生きる価値観に大きな揺らぎを起こすのかもしれない。その揺らぎは自分の精神の揺らぎを起こす。その揺らぎが問題意識を生んで、物語を生む。ニュースとして見ることができて、実際に戦地に行く人を送り出している国では、接点はもっとはっきりしているのだろう。
 でも、戦場はアミューズメントパークじゃないし、物語を生むための場所ではないのだ。自分につながる命をそこに送り出したくはない、とどうしても思ってしまう。
 そういうことは、今、ある程度豊かで恵まれているからこそ、俯瞰して見ることができるのだ。
 「アメリカン・スナイパー」という映画の中で、主人公の父親が言う。「人間は、羊か番犬か狼かの3種類しかない」と。そういう意味では私は間違いなく羊だ。だけど、子どもや自分に続く命を守るためには番犬にも狼にもなれると思う。ただし、ずっとそれを維持していられるわけではないし、なるべくなりたくない。矢面に立たされ、責められるということになればの話だ。そんな所に立ちたくはないしそこまで追い詰められたくない。だから、どうぞ立たせないで下さい、とお願いしたい。

 人間が作り出したもので意味があるものってあったのかしら?
 それは、食べる物と、個々人が生きるための動機づけを得る、「抜く」ことの亜種としてあるものなのだろうな。自分の意志でそれを選べるっていう自由を、ありがたく思うし、ありがたく思わなくちゃいけないと思う。

 生得的なことにたよらず、うまく「生き」「抜く」ということを人は考え続けていて、これからも考え続けるのだろう。生きるために脳があるのだから、生まれてしまったらしょうがない。生まれた時点で、生きるというパラドックスに巻き込まれてしまったのだ。
 
 人を攻撃したり、殺したりすることで「抜ける」人を育ててはいけないと思うし、そういう実感が生まれない世の中になって欲しい。
 無理?
 まあ、生きていると、対人関係においては山のような絶望に出会うから、個々人レベルで無理なことは無理なんでしょうね。個々人の精神の歪みが、どこで、どのように発揮されるかという問題って気がする。でも間違いなく自分自身の幸福だけではなくて、自分が生きている世の中の人の幸福を自分の幸福と受け止めて行動している人もいらっしゃるので、その方々に敬意を払い、せめて私は自分の絶望、自分の無力さ無価値さに押しつぶされないでいたい、な~~んて思っています。
よろしくお願いします。




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