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6.まとめ [精神と言葉]

最近起こった、STAP細胞を巡る一連のできごとは、同じ科学畑、同じような国の研究機関に働く一個人として、非常に残念でならない。
特に、まだ若くてキラキラしていて、自分のことを信じて、自分の研究で導き出されたことが真実だと信じて、舞台の矢面に立たされた女性。彼女が自分を信じる力が本物だったからこそ、周りを動かす力になり得たのだろうと想像できる。
そこに嘘があったら、公の場であんなに堂々と自分の説を主張できるわけがない。

また、その女性の力を信じて、研究する場を与えた立派な研究者の自死は残念過ぎる。昔ライオン丸みたいな人が「自己責任」ってキーワードを流行らせたけれど、個人では請け負いきれない問題を個人に押し付けようとする感じ、皆で寄ってたかって人を突っつく様子ってなんか、情けなくて悲しかった。
ご冥福をお祈りします。

私は今回命を落とされたような、理解ある研究者に触れ、教えられ、場を与えられて育ててもらったと思う。
矢面に立たされた彼女が学校や研究所など、いろいろな場所の「フィルター」にひっかからず表面に出てきてしまったのは、単に「偶然」の連続だっただけだと思う。そのこと自体がたまたま不幸な結果になっただけなのだと思う。
彼女を通してきた数々のフィルターが甘いと言えばそれまでだが、そんなことどこの世界でも起こり得ることだ。
完璧なチェック体制なんてあり得ないし、組織のリーダーや広告塔になる人の政策の失敗、失言、勉強不足が明らかだったとしても、いまだに組織のリーダーや広告塔としていられる世界もあるのだ。
単に、科学というものが新しい事実を発見しようとする学問だったから、「間違い」が暴かれやすかったに過ぎなかったのだろう。特に先端部分の研究ではいろいろな検証の目が働き、「エセ」が通用しにくい世界なのだと思う。でもそれこそが大事なところだ。
そして、その間違いが指摘され、再検討される仕組みがあることが最も大切だと思う。
どんな結果であれ、最後にはちゃんとフィルターが働いたのだから。
今回の事件で、誰のどこがいけないというような特定の個人への罪着せの議論がいかに無意味でくだらないことかということと、同じような失敗を繰り返さないようにするために個人が向く「方向」、取る「姿勢」を学ぶことはできたと思う。

自死については、アーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」の中で、「開いている窓の前で立ち止まるな」という言い方で表現されている。
開いている窓の前で立ち止まると、外の景色の方が魅力的に見える時があって、そこを越えようとする衝動の強さと、越えられる条件、たとえばたまたまその時一人であること、または、それまで一緒にいた人の言動が何かの暗喩を与え追い詰める結果になってしまったり、もしかして、単に何か音が鳴るとか…?、風が吹くとか?? そういうものに意味を見つけてしまったりして、行動に移す一瞬を与えてしまうものなのではないのかと想像している。
だけど、窓は開くもので、いつも閉まっているものではない。
開いているから見えるものがあり、わかるものもあるのだと思う。
この小説は見方によっては人物設定が奇抜な感じがするし、次々に起こる事件がこれまた奇抜で非日常的な感じがするから、読む人によっては不快に思えるかもしれない。だから人にすすめすることはできないけど、ある家族を通して、家族というつながりの中で絡まって起こる理不尽な不幸、偶発的な事故によってもたらされる理不尽な不幸、他人が絡んで起こる理不尽な不幸、社会に所属しなければならないことで起こる理不尽な不幸、各個人の心の中で起こる理不尽な不幸をどのように捉えて、自分で納得、解決して誰のせいにも何のせいにもせずに、幸せと言う形で心に定着させていくのかというヒントを与えてくれる。
物語の中に出てくる、ジュニアという人が、ボロボロになって泣いているフラニーを励ます言葉は、そのまま私の心に届いていて、いつでも私を励ましてくれる。そのセリフの中には嘘がないと感じる。その言葉を信じることができる。信じられる言葉は、心を強く折れにくくしてくれる。

「窓」との連想で、「キツネと私の12か月」という映画を思い出す。
この映画は人と自然のかかわりを描いたもので、半分ドキュメンタリーみたいな感じがする。自然の景観や、動物たち植物たちが美しく魅力的に撮影されている。
ある日、野生のキツネと出会った少女が、キツネに触ってみたい、仲良くなりたいという一心で、少女なりに工夫して餌付けを始める。野生動物にとっては「食べる」ことは生をつなぐ切実な問題だ。キツネは警戒しながらもだんだん少女を信用しようとしていく。その間のやりとりはすごくリアルだし、少女の好奇心と行動も本当のように見える。
キツネとの信頼関係ができたと思った少女は、だんだん、キツネを自分の思うままにしたいと思うようになる。首にバンダナを巻き、紐をつけようとして、思うようにいかないと苛立ちを覚える。キツネに逃げられるとその失敗を反省して、また待つことから始める。
そして、少女はやっとキツネを自分の家に招き入れることができた。それは「所有したい」という人間の欲がそうさせるのだろうけれど、少女にはまだそこまでの意識はない。ただ一生懸命なだけだ。
家に招き入れられたキツネはパニックになる。不安になり逃げようと焦り、あちこち走り回る。少女は驚き、どうしようもできない。
(脱線:キツネのパニック=これがつまり「狂気」だと思う。狂気はもともと持っているものではなくて、追い詰められて生まれるものなのだと思う。その狂気はある時までは表面に出ないまま内面で育っていくのだと思う。)

とうとうキツネは窓に体当たりして、ガラスを破り??(ここ不確か)外に飛び出してしまう。
もし、この少女が守備よくキツネを飼いならすことができたらどうだったろうか。キツネは観念し、時間を経て、少女の所有物になっただろう。
でも、その飼いならされたキツネのことを人間の視線で見てみると、それは「尊厳を放棄した」という状態に似ている。キツネは自分の尊厳を守るために死を選んだように見えるのだ。

生きようとする衝動を得るために快楽を求めたり、欲を追及したり、薬に頼る人もいる。いろいろな啓蒙書から脳の活性化の方法を探ろうとし、トレーニングに励む人もいる。だけど、そこが活性化しすぎると、今度は抑えられる。それは「生きる部分を殺す」感じだ。
そして急性的に狂気が表れてしまうと、思考自体が幼稚に思われるようで、「言葉」自体を信じてもらえなくなる。何か日常の「私」に当てはまらないことがあると、私の中にもともと存在する「狂気」がそうさせているのだと皆が疑っている、あるいは信じている感じで、私自身を信じてくれていないという疎外感が生まれ、自分が正気であることを信じてもらいたいと説明し続けることをあきらめてしまう。

(脱線:以上の文章の中では、「疑っている」「信じている」がほぼ同じ意味になるのでびっくりした。私の中に狂気があるというのは、疑われても信じられても困ることなのだ。それが表面化した時点でもう狂気は内面には残っていないのだと思う。今狂って見えるその時にこそ、正気であることを信じてもらいたいのだ。)

説明をあきらめた後、会話することに意味が見いだせなくなり、言葉自体の意味が失われて、人の言っていることがただの音になってしまったのだ。その時の光景は今思い出してみても不思議でならない。言葉に気持ちを集中しようとしても、まったく意味がわからなかった。本当に空虚だった。
意味が感じられない物にはもともと興味がわかないもんね。脳内バランスがくずれている状態では、それが極端な形で現れるのかもしれない。

統合失調を起こしやすい人には精神の病の素があると考えられていて、急性期には行動や感情がバラバラになってしまう(分裂してしまう)ため、話が通じないように見えるのだろう。だからなだめすかして嘘をついても、とにかく落ち着かせようとするのはしょうがないことだ。医療に解決を求めるしか方法がないと思われている以上、しょうがないことだと思うしかない。

だけど、人間は、遺伝というものに縛られず、生得的なものに縛られず、生まれた後の状況に自分を慣らし=「適応」させて脳を成長させ続けるために、胎児の状態で生まれるという方法を得たはずだ。
その自由な脳を持っているから、動物との違いを探り、驚き、よろこび、興味をもって、人の考えをつないで、時間を経るごとに知識を蓄積してきたはずだ。
産まれたての赤ん坊は、虫に近い感じがする。
お乳を飲もうと、触れる物の方に顔を向けて、口に何か入るとお乳を吸うように口を動かす赤ん坊の動きは反射に近くて、鳥の巣で餌を待つ雛の感じにそっくりだ。
それは、ただそこにあって、生きていて、生き続けようとする衝動があるだけのような感じがする。たぶん、その時点では何も決められていない自由な脳と衝動だけがあるのだろうと想像できる。
遺伝子を個人の「設計図」と考えてみると、その設計図に「男性」「女性」とはっきり書かれているにもかかわらず、成長するに従い自分の実感との齟齬を感じて、実感に従って身体的な性を改造し、戸籍に書かれた性を変更する個人だっているのだ。
これは「障碍」とか「病気」なのか? 単に「個性」という言葉で表現できることのような気もする。

成長するというのは、たぶん、生活を続ける上でのあらゆる行動を学習しながら、生きるということにつながるあらゆる衝動(野生の部分)を飼いならしていくことなのかもしれない。その全体のバランスを取って、うまく生きてゆくには、ただ単に自分を運転している自分を信用するしかないのだろうと思う。が、思考というものがこれを邪魔するのだ。
「考えないようにする」なんて、言葉で言うのは簡単だけど、不可能だ。だって、人間は考えることをして、その考えに従って行動する動物なんだから。
不要な闘争を避けるために、闘争のシンボルである角を発達させてきた、ヘラジカみたいな動物がいるけど、人間の場合は、脳が無駄に発達しすぎてしまっているようだ。

(10/21追加:「何かのシンボルを発達させすぎている」、ということを考えるとバビルサの方が説明に合っているかな。発達しすぎた牙が自分の脳を突き刺すかもしれないというのは…(~_~;) なんとも…。
人間は結局、発達させた脳を使っての思考やら話し合いでは「戦争」や「紛争」を解決できそうもないし、地球のことを考えたら、「人間が増えすぎている」ことが影響しているというのがもう目に見えて表れているのに、「経済を支える」ためにまだ人間の絶対数を増やそうとしているのだ。
フロンガスが人間の見えない所で、オゾン層に穴を開けていたみたいに、今、人間の絶対数が増えているという現実が地球のどこかに穴を開けているのかもしれないのだ。それは、地球に今たまりつつある狂気で、災害とか異常気象いう形で表面に現れるまでは、人間には感知できないのかもしれないし、仮に感知できたとしても、それから実行に移して改善できる時間は残されていないかもしれないのだ。
考える詰める人って、結局、ここで思考の壁にぶち当たるのかも。世紀末やハルマゲドンなどの感覚ってこういう感覚なのだろうと思う。)

今は、経済最・最・最優先の世の中だからどのように富を得るかということは誰でもが知りたいこと、皆が考えることだと思うけれど、目的が「知ること」自体ではなく「金」とか「物」にすり替えられてしまうと、それを得ること自体が脳を喜ばせるようになってしまうのかもしれない。だって、お金や物のほうが目に見えるし、価値を共有しやすいし、たくさんあればわりと何でもできるし、人自体を飼いならすことだって可能な時があるし、目標にしやすいし、自分が生きている間だけ満足していればそれでいいわけなので、わかりやすいのだから、しょうがない。
「経済最優先」って、私には「人間置いてきぼり宣言」という風に聞こえる。経済様は多くの人にとって救世主と信じられているみたいだ。その信仰においてはそれを疑うのはタブーで、まず経済様があるところから世界が始まっているのだ。

物の違いに気が付いて、「わかった」と思う瞬間って、本当にうれしい。その一瞬、世界が輝く感じだ。マンガとかだったら、頭の中で電気がピカって光る感じだよね? その表現で皆に通じているということは、そういう感覚を誰しもが持っているということだよね?
これは、きっと、真っ暗な夜に、最初に人工の光を得た時の喜びの表現なんだと思う。
驚くことは脳を喜ばせてくれるから、また新たに物を知りたいという欲求が生まれ、それを考えるために脳自体を活性化して使わなければならないから、永遠に脳を機能させ得る欲求になるのではないか、という気がする。それだけで済むなら、薬や「ごほうび」はいらない。
だけど、最低限の楽しみをつなぐためには、金はいるんだよ。やっぱり。だから私は働きます。
やれん。
(「やれん」という表現は、町田康さんの表現を拝借しました。ここにきて、なんで急にさん付けにしたいのか? 自分でも意味わかりませ~ん。だけどそういう気分なんです。お許しください)
まったく、やれんっす。

おしまい。




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