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気まぐれ番外編:娘 [精神と言葉]

義母に「あんた、なんで女の子を産まなかったんだい?」
と聞かれたことがある。
答えられなかった。
だって私の努力だけではどうしようもできないことだから。そういうことはただ聞いておく。そして何か引っかかっているからまだ覚えている。何かの感情が伴っているわけではない。ただの言葉として記憶に残っていて、その裏にあるものを考え続けている。
義母は男の子が欲しくて、できるまでがんばって産んで育てたから、その経験と自信がその言葉を支えているのだろうと思われる。

義姉からの手紙に「娘がいてくれるのはいいことです」とか「娘がいたら良かったのにね」と書かれていることがときどきあったけれど、それはどういう意味だったのかな。
確かにそうだろうな、とは思ったけれど、娘を持たなければわからない何か、私の中に欠けているものがあるということだったのかもしれない。
いやいや~? たぶん、[富士山が見えました。きれいだね」とかそういう、単なる感想っていう気もする。だから特別な意味は無いんじゃないかとも思うけど、これもず~~~っと引っかかっていることだから、保留にしてある。
そうやって引っかかっている言葉は、何かのきっかけでふっと何かにつながって意味を持つことがある。その瞬間って奇跡が起きたような感じがして、世界が輝くような感じがしてうれしいし、そのことがおもしろい。だから大事に温めておく。

子供を産むのなら娘が欲しかった。
子どもが産まれてくる直前にお産婆さんから「どちらがいいですか?」と聞かれた時には「女の子」と答えた。
けどその機会は得られなかったし、これからもたぶん得られないと思う。
でも、私には男友達はいなくて、友達は全員女で、すべての友達が例外なく誰かの娘なのだ。そしてその友達が娘を産んだり養子にした場合、友達を通じて娘の良さを実感できている。姉や妹、姪についても同じことが言える。
それで十分満足している。
息子は???
これにはまだ答えが出せない。少なくとも私と血縁関係にある息子の中で、充分な答えを出す存在になっている息子を思い出せない。
それは単に私が娘であるということで得た感受性によるものなのかな??
でもまあ、受精卵はホルモンの洗礼を受ける前は皆娘だったわけで、乱暴な言い方をすれば、人間は発生当時は皆娘だったってことになる。

何だか知らないけれど、いい年してもまだすごい精神が傷つきやすくて、ボロボロになったと感じた時には、「一人」になると泣いてばかりいるけど、泣くこと自体は好きだし、不思議なくらい全然心が折れない。泣くことって、脳の機能がだいたい統合していて感情にピントが合っている時でないとできないし、なんていうのか「精神が死んでない」って感じがするのだ。
(一人に「」を付けたのは、切手代だか何かで追及されて、公の場面で泣いていたどこかの議員さんを思い出し、あの人と一緒に思われたら困るので、公の場ではないことを強調したかったからです)

傷つくって言うのは、私にとっては単に精神的な違和感、ちょっとしたストレスで、どうしてだか知らないけどそのストレスは大きくは育たない。特に追い込まれると心はよけいに折れにくくなる。
折れたように見えたこともあったけど、少し時間がかかっても復活できた。
まあ、単に気が強く粘着気質でノー天気なのか、という感じもするけど。
それに、最近恥ずかしいってことも少なくなってきていて、こんな文章をズラズラ人目に晒しても全然恥ずかしくない。だって、頭の病院では拘束されて、尿カテーテルにおむつ。いやだったけど、脱糞を止められなかった。頭がおかしいと思われていると、どんなに懇願したって拘束は解いてもらえないのだから、あきらめるしかない。おむつを替える様子もわりとクリアに覚えているけど、今はマジで笑える。人に助けてもらって、笑われて、今ここにいるんだもん。ほとんどのことは恥ずかしくなくなるよ。あの時は腹が立っていて「尊厳死!」と騒いでいたけれど、あれは集団リンチでもいじめでもなかったのだ。現在の精神医療の治療の限界なのだからしょうがない。
そんな中で、何かの形で私にヒントや助言を与えようとし、誠意を見せてくれた人のことは忘れない。そういう人のありがたさは全部いただいて、無駄にせず栄養にしたい。
河原で亡くなった少年。人目についていたのに、放っておかれて殺されてしまった彼の怒り、絶望、悲しみも、全部いただいて無駄にせず栄養にしたい。

調子のいい時は、一人で浮かれて、楽しいことばかりしている。ラジオ体操の歌が始まると踊ってみたりする。
この強さは結局は自分の家族から与えられた力なんだと感じる。
本当にありがたい。
こんなに強く、健康であることに感謝するしかない。
少々考えが狂っていたって、仕事ができれば御の字だ。

「ソフィの選択」という映画をよく思い出す。私はソフィに選択されて殺された娘だったんだなとよく思う。あれは、命がかかった場所での、ソフィの究極の選択だった。理不尽な力で選択を強いられ、無力なソフィは娘を捨てるしかなかった。ソフィは自分より息子が生き延びてくれることを祈っていたに違いない。だけどソフィは選んだ息子も失った。そしてソフィはそれをずっと後悔し、生き続けている自分を恥じている。
私の心はいつもソフィに寄り添っている。
この間ふと、私は私自身が求めていた娘になりたいのだと気がついた。だからいつまでも折れずに、私は私の理想の娘になろうとしている。人がどんな娘を求めようと、どんな娘になろうとどうだっていい。もう人のことは考えないことにした。
私はただ、私自身の理想の娘として生涯を終えたい。

ハハハ。
文章にすると大げさだけど、本当の気持ちです。
「究極のナルシストバカ多幸感」




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