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水色のケーキ 3. [水色のケーキ]

 学校祭の第一日目。
 ものすごい風が強かったけれど、ものすごい良い天気だった。
 学校祭は三日あって、一日に四本ずつの演劇が上演される。一日目は一年から四年まで低学年の発表がある。そうやって学年順に四本ずつグループ分けされているけど、その日の上演順はくじ引きで決められる。
一つの劇は一時間以内の長さということになっている。だいたい皆みっちり時間を使う。ときどきオーバーする学年もいる。短いというクラスは今まで見たことがない。劇と劇との間には二十分の休憩が入る。一つの劇をちゃんと見終わってから、次の学年が用意することができるように取ってある時間だ。その日上演がある学年の人は、もう朝から衣装を着ていることが多いけれど、それでも休憩時間に用意できなくてオーバーする学年がいる。だから絶対に時間オーバーになる。
朝、九時から始まって、午前に二クラスの上映がある。終わる時間に合わせて、十二時前でもランチタイムになって、それが一時間。午後も二クラス。早い時は四時ころに終わり、遅いと七時近くになることもあった。
 皆、座ったままだし、つまらないと眠くなってしまうし、腰は痛くなるし、かなり重労働で、その中で自分たちも出るのだから皆、疲れ切ってしまう。
でも、おもしろいものがだんぜん多い。おもしろいとぜんぜん疲れていることに気がつかないし(でも帰ったらがっくりくるけど)、次が楽しみになる。それに一日目は低学年だから、かわいい、楽しいものが多くて、あたしはいつも引き込まれる。今年は一日目の一回目が一年生だった。
あたしはこの学校でもう七回も劇をやったんだな、と思うと心が熱くなってきた。そしてこれが最後の通学校祭になるんだ。そう思うと目がうるうるとしてくるのだった。
あたしたちは八年生だから二日目だ。一日目が終わると、だんだんドキドキしてきて、夜もよく眠れなかった。
今年はアツミさんがくじ引きをして四番目の上演になった。自分の番が終わらないと、ほかの学年のお芝居を見ていてもなんだか気がそぞろで、しっくり頭に入ってこない。自分たちのことばかりが気になって、気持ちがどうも落ち着かなかった。
 休み時間の二十分はみなバタバタしている。みんな自分の衣装はもう着ているけれど、楽しみを隠すみたいに、上にコートを着たり大きいスカーフかぶっている。それでもやっぱり休憩時間に用意できない学年もいて、だんだん時間が押されてしまっていた。
 三時少し前にやっとあたしたちの番が回って来た。
あたしたちの衣装はすごく簡単。みんなが顔だけ出して、他は黒の洋服。Tシャツでもなんでもいい。黒い布を巻いている人もいる。首にも黒いスカーフを巻いている。顔だけが目立つよう工夫した。
 予定通りに真っ暗な舞台。ペンライトでは小さすぎるということになって、けっこう大きめの懐中電灯を一人一つずつ持っている。
 ミョウジのシンセサイザーによる『アクエリアス』の演奏に合わせて、あたしたちは一列に舞台に上がった。そして、光が上下に動くように揺らしながら、みんなで舞台をぐるりと一周した。
 タタヒロとアツシは結局、二人ともトライアングルを鳴らすことになった。
それぞれがそれぞれの持ち場に立ったり、座ったりすると、一度音楽が消えて静かになる。そして舞台の上手に立ったタタヒロが自分のヘルメットに付いたライトを点けて、トライアングルを鳴らす。
「聞こえる」
 アツミさんが自分のライトを点けて言う。
「星のまたたき」
 トモミが自分のライトを点けて言う。
 タタヒロが自分のライトを消し、舞台の下手にいるアツシがライトを点けて、トライアングルを鳴らす。
 また同じように、アツミさんとトモミのセリフが繰り返される。そうやって、劇は始まった。
 もっとドキドキするかと思っていたけれど、いざ始まってみるとあたしはちっともドキドキしていなくて、みんなの一つずつのセリフが心の底にまで届いてくるように感じていた。
 あたしが最初に考えたシナリオとは、セリフはかなり変わっていた。
 たとえば、オハラ レナは自分の好きなもの、やりたいことをセリフにして、星の名前や、どのように舞台を作るのかも自分で考えた。
「ここは花の星、フローラー。ここにはたくさんの花がさいているの」
 とレナが言う。
 何人かは舞台の背景になって、たくさんの花をかかえてレナの後ろにならぶ。
「季節ごとに、いろいろな色の花が咲くわ。花が咲いていないときはないの。いつでも咲いているの」
 うしろの花たちは、音楽に合わせて、揺れている。
「花はみなさんの所に届けます」
 花を抱えていたみんなは、前に出て、それを舞台から客席に投げる。
「花を絶やさないように、土を耕して、水がなくならないように、いつでも目を見張って、花が枯れないように、花が一番美しい形で咲けるようにしているのです」
 実際、レナは花の種類をよく知っているし、お家でも季節ごとに花を育てるのが好きなのだ。
 タカハタ トムのように、自分のこれまでのことをセリフに入れたいという人もいた。
「この星、セルネットは生まれたとき、とてもとても小さかった」
 と、トムがささやくように言う。
「そのままにしておいたら、消えてしまう、ゴミのようなものだった」
 周りのみんながトムを抱えて、上にあげる。
「たくさんの手がこの星を助けた。たくさんの栄養が必要だった」
 トムはみんなにかつぎあげられて、ぐるぐると回る。
「そして、今、やっと一つの星として明かりをともすことができるようになった。この星は少しでも今より明るくなるように、ぐるぐる回っている」
 みんなの手を離れてトムは一人でぐるぐる回る。
 あたしは、自分の実際のことを自分のセリフで言うなんてことは、できない。あたしの生活のことなんか、何一つ人に伝えたいなんて思ったことはなかった。だから、まったく空想だけのセリフだった。
「みなさん、見えますか」
 と、あたしはライトを振る。
「今、この星は生まれました。できたてのホヤホヤです。名前もありません」
 あたしはあたしの身に着けている黒い布の中から、白い布を出して、広げる。
「ここは新しい宇宙の中継ステーションになります。いろいろな星がここを拠点にして、連絡を取り合うのです。放送局のようなものですね。たくさんの音楽も発信されています!」
 音楽係のタタヒロとアツシが、ちょっとずつ、いろいろな音楽をつぎはぎした音を流す。
「音はここで生まれ、たくさんの星にとどくのです」
 そして、アツミさん
「今日は、星の博覧会にようこそいらっしゃいました」
 アツミさんが黒い布を取ると、鮮やかな水色の衣装が出てくる。
「私は、空、そのものです。空だけでは何もないのと同じ。そこに星がまたたいていて、やっと空と呼べるものになります」
 アツミさんが手を広げると衣装はパーッと一緒に広がって、ふわふわと揺れる。
 まわりのみんなは風船を膨らまし始める。
「空には、たくさんの星のエネルギーが詰まっています。ほら」
 膨らませた風船を手放すと、風船が、それぞれに勝手な方向に飛んでく、風船を手放した星たちはまた次の風船を膨らませる。
「それぞれの星にそれぞれの思いがあります。夜空を目を凝らして見てください。星は瞬いています。それは星からあふれた思いです」

舞台.jpg


 あたしが最初に考えていたのとは、かなり違ったものになったけれど、でもそれで良かったと思う。あたしが考えたセリフのままでいいという人はそのまま、あたしのセリフを使ったけど、それでもかなり直したし、実際にそれを言う時には何かしらが変わって行った。その人自身の言葉になるのだ。
 みんなで作り始めたら、どんどん違う考えも出てきて、周りの人たちの動きをどうするか、背景をどうするか、つぎつぎに意見が出てきてふくらんでいった。
 風船を膨らませるというのは、アツミさんの考えだったし、音楽担当は皆の希望に合うように音楽を探し、考え、それがダメだと言われればまた探し、考えた。全員が参加して、セリフを言いたくなくても、ただ舞台に立って、ライトを点ける。それでりっぱなその人の役になるのだ。
 あたしは、かなり満足して、宇宙を舞台にするのは、すごくいい考えだったな、と自分でちょぴり自慢したい気分になっていた。
 やっと自分たちの演劇が終わったことで、あたしはすごくホッとしていた。最後だと思うといろいろな思いが押し寄せてきていて、頭にその思いがいっぱいになっていて、言葉にするには難しい感じだった。

三日目。最後の劇が終わった後、校長先生のお話があり、十二年生とのお別れのあいさつが終わった。会場からどどっと人が帰って行って、会場にはどんどん人がいなくなる。片付けの生徒がお掃除を始めて、あたしもそれを手伝った。
トモミもイスなどを片付けていて、ときどき目が合うと、笑いあった。アツミさんも片付けていたけれど、アツミさんはまた以前の固い表情になっていて、誰とも目を合わせないでもくもくと片付けていた。
アツミさんは、帰りがけにあたしの所にやってくると、
「成功だったね! ありがとう。あたし、なんだか頭が痛いから、もう帰るね」
と例のとろけるような笑顔で言った。頭が痛いのに…。あたしはそのアツミさんの後姿をしばし見つめてしまった。
アツミさんは出口近くにいたトモミにも声をかけて、トモミも何か言って、そして会場を出て行った。
あたしはなんだか一人で帰りたくない気分だった。そのあたしの気分が通じたかのように、トモミがまたいつものように走り寄ってきた。でも、何か少しおかしい。トモミはなんだか少しさびしそうに笑うと
「ね、今日、どこかに寄って帰ろう!」
 と言った。
「うん。あたしもそんな気分だったの。寄って帰ろう!」
 あたしも心の底からそう思っていた。
「ねえ、少し静かな場所がいいな。ヒトミに話しておきたいことがあるから」
 トモミがやけに真面目に言う。
「話って…。いつも話して帰っているじゃない。毎日のように!」
「そうだけど…。座って、ヒトミの目を見て、まっすぐ話したい」
「げ! なに、それ。重たい話ってこと?」
「そういうわけじゃないけど。アツミさんのこと、話したい」
 あたしはちょっとムッとした。昨日だって一緒に帰ったのだから、昨日言っておいてくれたのなら良かったのに。
「パーラーに行きたいな」
「うんいいよ」
 あたしも、まだ引っ越しすること、ママと一緒に暮らすことをトモミに話していなかったじゃないか。それを話すちょうどいい機会かもしれないと思った。
 あたしは、トモミをスクーターの後ろに乗せて、少し遠くのミキムラのフルーツパーラーに行くことにした。本当は二人乗りは得意じゃないけど、しょうがない。念のためにいつも予備のヘルメットをサドルの下にしまってある。
 ミキムラのフルーツパーラーには、ママと一緒に行ったことがある。でもお友達と一緒に行くのは初めてのことだった。
 お店の前に小さい花壇があって、その花壇の見える席があたしのお気に入りだ。
 そのお気に入りの席が空いていたので、二人で喜んだ。
「ミキムラ、あたしも大好きだよ! いつもママと来るの!」
 とトモミが言った。
 メニューを見て、すごく二人で悩む。絵本みたいに、色鉛筆描きのパフェがたくさんならんでいる。そのページを見ているだけで楽しい。
「あたしは、やっぱりイチゴだな」
 とトモミが先に決めた。
「うーん。悩むけど…、あたしもイチゴかな」
 ふたりで同じイチゴパフェをたのんで、むかい合うと、なんだかすごく変な感じがした。トモミと仲良くなってからこの二年、いつも教室の隣の席か、スクーターを押しながら並んで帰る時におしゃべりしていたけれど、こんな風にかしこまって向かい合って座ったことがなかったのだ。
「ねえねえ、話って何?」
「すごいこと」
 トモミが目を輝かせる。
「あのね。アツミさんが、先週、うちに遊びに来たの」
 あたしは、たぶん、目をパチクリした。
「ね。ごめん。ヒトミ。なんでヒトミのことお家に誘わなかったのかって、ヒトミ、そう思うよね。まず、そのことから話さなくちゃあならない。だから、ちゃんと座ってお話したかったの」
 あたしは、たぶん、まばたきもできなかった。いったい、なんと返事したらいいのか、見当もつかなかったのだ。
「ね、あたしのママのこと話したことあるよね」
「う、うん…、なんのことだっけ?」
「ママってね、すごく身体が弱いってこと」
「そういえば…、そうだったかな?」
「ママはね、とにかくあたしのことをすごく心配してくれるの。あたしのこと、宝物って言ってくれる。そしてね、あまり心配しすぎると、寝込んじゃうの。それはね、時としてすごくわざとらしいな、と感じることもある。あたしが、だんだん大人になってきて、そういうことがね、見えるようになってきたの」
「うん」
「ママはね、桜東通学校に通うことには、反対だったんだよ」
 そこで、二つのパフェが運ばれてきて、ウェイトレスさんがいなくなるまで、話はちょっとお休みになった。

パフェ.jpg


 二人の間にパフェが並ぶと、顔が少し隠れるし、パフェに少し気持ちが動くから、話が聞きやすくなったように感じた。
「もともとママはあたしのこと、外に出したくなかったの。どうしてお家でサテライト校を受けないのかって、毎日のように泣いて、泣いて、トモミはママよりも学校のお友達と仲良くなって、それで幸せなの? なんて言うんだよ。まいっちゃうよ。それに、どうせ通学校に通うのなら、もっとお金持ちの人が集まっている良い学校、セキュリティーがしっかりしている通学校にしなさい、って言ったの」
 あたしは、だんだん返事をするのが面倒くさくなって、イチゴを突っつきながら、目で相槌を打って、聞いていた。
「あたしは、ママとはうまくやって行きたいって思ってる。ママを怒らせたくないし、泣かせたくもない。ママとお買い物に行くのは楽しいし、お話するのも楽しい。ママがいつも気持ち良く、あたしのことかわいがってくれる時が好き。
 でもさ、どうしても桜東通学校に行きたかったの。だって、あたしが知っている昔の学校の様子に一番似ているし…、ママやママのお友達のおばさま方のことも好きだけれど、ママやおばさまたちが、好きなものは、あたしが本当に好きなものとは違う。あたしは本を読んだり勉強したりすることが好きで、桜東通学校ではそれがすごくシンプルな形でできそうな気がしていたの。それに皆で演劇をするのもおもしろそうだった。
 キヤ シンヤってうちの通学校の出身だよね? 俳優ではダントツうまいって思わない? そういうところではけっこう評価されてるもん。うちの学校。
でもママにはそんなこと言ったってわからないだろうし、あたしが説明してわかってもらう気もなかった。だから、ママの言うとおりの通学校に通おうかなとも思っていたの。」
「… …」
「でもね、でもね、パパが言ってくれたの『学校くらい、トモミの好きな所に通わせてあげよう』って。『自分の行きたくない学校にいやいや通うなんて、させたくない』って。それってすごかった。いつもパパはママを大事にしていて、ほとんど何も言わないから、それがすごくカッコよくて、重たくて、ママもはは~って、何も言わなくなった。あたしはうれしかったよ」
「…、…」
 いったいトモミはこんなに遠くの方から話をして、何が言いたいっていうんだろう。あたしにはまだ見当もつかなかった。
「でもね。あたしが桜東通学校に通うことが決まってからは、ママは寝込むことが多くなった。お家に帰ってもね、具合が悪いって言って寝ているの。お食事とかはちゃんと家政婦さんが来て作ってくれていたし、あたしは、ママに顔を見せて、ママのお話を聞いて、お家にいる時はママが喜ぶようにしていたの。
一年経った頃くらいから、ママも慣れてきて、あたしの通学校のお話を聞きたがったり、あたしのお友達に会いたいと言うようになってきたの。そのころから、ママは学校のお友達を連れていらっしゃって言ってくれるようになったの。あたしもお友達にお家に来てほしいとずっと思っていた。いつも。一番、ヒトミに来て欲しいと思っていた。いつも」
 声に出さなかったけれど、「あ!」と心の中で思った。いつもトモミが言いたそうで言わない言葉。「ねえ、ヒトミこんどさ…」。で、あたしが聞き返すと「なんでもない」って言う。あの言葉に続くのは「お家に遊びに来て」っていうことだったのだ!
「でも、あたしにはわかっているの。ママはヒトミのことが気に入らない」
 びっくりした。こんなこと、真正面から言われるなんて。
「ママは、いつも言っている。ヒトミが住んでいる地区の人とは付き合ってはいけませんって。桜通学校にはそういう所からも子供が通ってきているから、だから反対したのだって。そういうお友だちには気をつけなさいって。
もちろん、あたしはちゃんと説明して、ママにわかってもらおうとも思った。でもわかるんだよ。ママの心の中にはすごい厚い壁みたいなものがあって、それは今のあたしの力ではどうやっても動かせないものなの。それを動かそうとすると、ママも具合が悪くなるし、あたしもすごく暗い気持ちになる。
 その点、アツミさんだったら、大丈夫。アツミさんの住んでいる所は問題ないし…。それにアツミさんはステキだから、お話ししてみたいと思っていたから、思い切ってあたしが誘ったら、すぐに来てくれたの。
ヒトミのおかげだよ。あの劇の練習が始まってから、あたし、すごくアツミさんと話しやすくなったの。セリフをどういう風に言ったらいいかとかね、お話しするきっかけがたくさんできたの。でね、アツミさんって一度話してみるとね、とっても暖かくて、良くて、楽しい人なんだよ! ヒトミのこともほめていたよ。あのシナリオがあったから、どんどん話が進んで、みんなでまとまって良かったって」
 あたしは何でもないような顔をして、パフェをもう半分食べていた。今までに感じたことのないようなヘンテコな気分だった。
「怒った?」
 あたしがずっと黙っているからか、トモミが気にして、聞いてきた。
「怒ってない」
「じゃあ、何か言って。今までのところまでの話、どう思う?」
「どうって…」
 あたしはパフェをかき回す。
「トモミのママが言っているのはおじいちゃんのことだよね。たぶん、おじいちゃんが『外された』人だからだよね。」
「そこまで…、わからない」
「そうだよ。でも、おじいちゃんは犯罪者じゃないよ。ただ、おじいちゃんが正しいと思ったことを通そうとしただけなんだよ。それがおじいちゃんの勤めていた会社の偉くて裕福で、代々そうやって偉くて裕福に暮らしている人のことを脅かしたの。おじいちゃんは会社を辞めさせられたし、いい仕事にも就けなくなってお、お金もなくなった。
でも、おじいちゃんは、今だってその考えを間違えているとは思っていないよ。ただ、今の世の中には通用しない。長いこと押さえつけられて、エネルギーもなくなった。だから、静かに暮らしているんだよ。おじいちゃんがどんなにやさしくて、ステキで、あたしのこと思って、毎日真面目にしっかり働いているのか、あたしは毎日見ているから、よく知っている」
 おじいちゃんのやさしい笑顔が浮かんで、あたしの目から涙がこぼれた。
「ごめん。ヒトミ」
「いいの。これは説明とかしてわかることじゃないから…」
「それで、こう言いたいの。あたしは、ママのお家でママの世話になっているうちはヒトミをお家に誘うことはできない。ママによけいな心配かけたくないし。桜東通学校自体のこと、だめな所だと思って欲しくないし、いろいろ言って欲しくないから」
「そんなこと、どうでもいいよ」
「よくない。まだ続きがあるの」
 トモミって、なんでこんなにまで正直に、あたしが嫌な気になることまで全部あたしに話してしまうんだろう。あたしは、つい溜息ついてしまって、ぼんやりとトモミを見つめた。
「あたしは、ずっとヒトミとお友だちでいたい。こんな風に、ヒトミを邪魔にしたみたいにしてアツミさんを誘ってしまったけど、そのことについては、気を悪くしたとしてもしょうがないと思ってる。あたしはいつか、ママの手を離れて、あたしの考えだけで生活できるようになったら、いつか、ヒトミ、あたしの家に来て!」
「バカみたい!」
 と言って、あたしは笑った。
「いつも、あたしのこと『ぐるぐるの考え』になってるって、トモミはからかうけど、今日はトモミがぐるぐるの考えになっているよ。それに、まだ、そんな先のことまでわからないよ! その時になっていないんだから、今から約束しても意味がないよ」
「でも言って! ずっとお友達でいてくれるって!」
 あたしはすっかりシラケ切ってしまって、今流した涙が嘘のように引っこんだ。あきれた顔を隠すように、グラスの底に残っているアイスを長いスプーンでかきあつめた。
「あたしも、トモミに言わなければならないことがあった!」
 今度はあたしが話す番だった。
 あたしは、ママと東京で暮らす決心をして、もう四月には桜東通学校から転校することをトモミに言った。
「ウソ!」
 トモミは、悲しそうに言った。
「ホントだよ。いつだって」
「あたしが、アツミさんと仲良くなったからって、それだからって、意地になっているんじゃないよね?」
「バカじゃないの? それを知ったのは今日でしょ! 違うに決まっているじゃない」
「じゃあ、遠く離れても、友達でいよう!」
「トモミ。わからないよ。友だちでいようなんて…それは、自然に続いたり、続かなかったりすることで、約束したりすることじゃないと思う」
 きっぱり言うとトモミの顔がなんだかごっつくなったので、すかさず付け加えた。
「でも、あたしは…、トモミと友達でいたいって思っているよ」
「ありがと!」
 ごっつい顔がほころんだ。
「今のところはね!」
 そんな先の約束まで自信が持てないから、ついそう言った。こういう時には、どうでもいいって気持ちになってしまう。
「ヒトミって、なんか冷めてる」
「トモミって、なんか暑苦しい」
 いつもだったら、ここで二人で大笑いしていたのかな? でも今はそういう気にはなれなくて、ちょっとニッコリして、あたしはトモミをトモミのお家の近くまでスクーターで送って行った。
 スクーターから降りたトモミが、急に泣き出した。しゃくり上げるように泣いて、泣いて、止まりそうもなかった。「バイバイ」も言えなくて、ちょっと手を上げると、泣きながら家に向かって行った。
「この、スクーターの名前はラビットだよ!」
 トモミの背中に向かって、あたしが言った。ほかに言う言葉を思いつかなかった。
「うん。わかってる」
 トモミは振り返って涙を拭うと、悲しそうに笑って、お家の方に走って行ってしまった。

 それから、八年生の最後の日まではたった三日しかなかった。
 最後の日に、あたしとトモミはとうとうアツミさんに水色のケーキをプレゼントした。
「一緒に食べませんか?」
 とあたしが声をかけて、ホールで三人で座った。
 ケイエスのケーキの箱の中には、三つの水色クリームのケーキが入っていた。
「ああ、これ。ブルーベリーよね」
 アツミさんが言った。
 なんだ、やっぱり知っていたのか、知らないのはあたしだけだったのか。
「ここのケーキはどれもおいしいよね」
 アツミさんが喜んでくれたので、あたしはうれしかった。
「残念ね、ヒトミさんが学校を辞めてしまうなんて」
「ええ。でも、来年の通学校祭には見に来たいなと思っているから、みんなにがんばってもらいたいな」
「そうね」
「ねえねえ、なんでヒトミがアツミさんにそのケーキプレゼントしたいか、知ってる?」
 トモミが話に入り込んできた。
「アツミさんがいつも水色のお洋服を着ているから、水色のクリームのケーキだって! お洋服の色と食べ物なんて、関係ないのに」
 フフフとトモミが笑うと、アツミさんがちょっと不服そうな顔をした。
「水色か…」
 あたしとトモミがちょっと目くばせする。
「これは、空色って言ってもらいたいな」
 アツミさんは自分の着ているシャツを引っ張った。
「水の色って、もっと強い色よね」
「強い?」
 あたしとトモミが同時に声を上げる。
「そう。太陽の下で光っている海って、グリーンだったり、マリンブルーっていうみたいにもっと濃い色だったり、『ここにいます!』っていう、強い感じがする。
 あたしのイメージする色は空色で、もっと薄くて、何もないかなって感じの色」
「そう?」
「そうよ。この世から消えてなくなってしまいたいな、って思った時に、あ、空になればいいんだ、って思ったの」
「へえ~」
 言いながらも、アツミさんのセリフを思い出した。
『空だけでは何もないのと同じ。そこに星がまたたいていて、やっと空と呼べるものになります』
「それに、空には触れない! 水には触れるけど」
 あたしとトモミはうんうんとうなずき合った。
 ホールを出ると、「じゃあね」と手を振って、アツミさんが先に帰って行った。
 あたしとトモミはいつものようにスクーターを引っ張りながら、並んで歩いた。
「落ち着いたら、遊びに来て」
 あたしが言った。
 珍しく、トモミは何も返事せず、下を向いてしまった。
「大丈夫だよ。今度はおじいちゃんの家じゃないから、遊びに来ても」
 そういえば、あたしにはお家にお友達を呼ぶ、なんて発想はなかったんだな。今までは。
「いつかさ、家にも遊びに来て」
 トモミが言って、別れた。
 もう桜東通学校には来ないんだ。ここに来ないあたしって、どんな生活になるのだろう。あたしはスクーターに乗って、いろいろ新しい生活を想像していた。

 四月。新しい生活が始まった。
 ママのマンションは高いビルの二十一階だった。家の外は車も人も多くて、「さすが都会」とあたしは思った。
 おじいちゃんの暗い湿ったお家に暮らしていた毎日は、どんどん遠のいていった。
 あたしは、九年生になり、中央公園通学校に通うことになった。ここもとてもシンプルな通学校だった。家から歩いて通える。中央公園の中にあって、図書館とカフェ、公園事務所が一緒になっている三階建てのビルの三階に教室がある。木々に埋もれているから、森の中の学校みたいに感じる。ちっとも都会って感じがしない。あたしは見学に来て、一度で気に入ってしまった。
 九年生は十人。そのうち八人が女子でみんなとはすぐに仲良くなれた。まだ一緒に帰ったり、お家に行ったりというようなお友達はいないけれど、みんなサッパリしていて、自分の世界を持っているっていう感じで、これから、いろいろわかってくることがあるのかな…。とっても楽しみだ。
 ママは遅くなることが多いので、家で一人で過ごすことが多いけれど、勉強したり、本を読んだり、時々おじいちゃんやトモミに電話してみたり、好きな映画やアニメを見たり、絵を描いたり、パソコンをやったり、やることはたくさんある。
 おしゃれな雑貨屋さんやスイーツの店、お洋服のショップなどがあって、街を歩くのも楽しかった。
 それに…、ママが忙しいので、あたしが料理をすることにした。パソコンでいろいろな料理のレシピを探して、近くのスーパーに材料を買いに行く。おじいちゃんが作ってくれた煮物の味を思い出して、おじいちゃんに作り方を聞いたり、モロッコとかポルトガル風なんていう料理を自分なりにアレンジしてみたりして、まだこちらに来てやっとひと月だけれど、毎日すごく「充実してる」という感じがしていた。
 五月の連休にはおじいちゃんの家に行ったり、その間にトモミと会ったり、おじいちゃんの畑を手伝うことにしていて、それも楽しみだった。

「ね、ヒトミに会ってもらいたい人がいるの」
 連休になる二日前の朝、あたしがお弁当を詰めていると、仕事に出かける前に、ママが急にあたしの後ろからあたしの両肩を両手で軽くつかんで、そう言った。
 あたしが振り返ろうとすると、
「こっちを見ないで聞いて」
 と言うのだ。あたしは返事できなくて、目をパチクリした。
「あのね。その人はヒトミのパパなの」
 あたしはますます返事ができなくなって、こんどは瞬きもできない感じになって、顔が強ばった。
「ヒトミがおじいちゃんの家にお泊りに行く前にね、会ってほしいの。だから…、もう明日しかないから、明日の夜にね、どこかでお食事しよう。心づもりしておいてね。じゃあね、行ってきます」
 ママはそれだけ言うと、先にさっさと仕事に出かけてしまった。
 あたしは身体も頭の中までも固まったしまったみたいになって、次に何をしていいかわからなくなった。
「そうだ! お弁当、お弁当」
 と自分に言い聞かせるように言うと、中身を詰めたお弁当箱をハンカチでくるんで、リュックに入れた。そうしたら、猛烈に腹が立って来た。
 なんだって、ママは急に、こんな朝に、大事なことをいとも簡単に言うのだろう。あたしの目も見ずに! すごく複雑な気持ちがぐるぐる渦巻いてきて、涙が流れてきた。ママって勝手すぎる!
 そのまま、今手に持っているものを全部ぶん投げて、テーブルも何もひっくり返してしまいたいような気持になった。でも、もう学校に行く時間だった。あたしは顔を洗い直し、深呼吸して、自分の顔を見つめた。
 目が赤い。
「ママのバカ! バカ! 大バカ!」
 鏡の中のあたしに訴え、タオルをぐるぐると振り回した。それでも腹が立って、バシバシとタオルで流しを鞭打った。深呼吸した。さらにもう一度気持ちを落ち着けて、学校に向かった。
 いろいろ、わからないことが頭の中でぐるぐる渦巻いていた。なんだって、今なの? パパの話なんて、一度も聞いたことがないのに! どうしてママはいつも急にそういうこと言うの? いったいどこのだれなのだろう。パパって。
 ありがたいことに、学校に行ってしまったら、少しは気持ちが紛れた。ママはそれを計算して、朝のバタバタしている時にあたしに言ったに違いない。一緒に暮らすようになったら、ゆっくり話ができるなんて、うそっぱちだったじゃないか!
結局、ママはいつも忙しくて、あたしが寝てから帰ってきたり、あたしが学校に行く頃には眠っていたり、今日みたいにあたしより早く出て行ってしまったり、こういうの「すれ違い」って言うんじゃなかったっけ? そうして、あたしに考える時間を与えずに、もう「明日」パパと会う約束をしていたんだ! あたしの時間なんか気にせずに。
また腹が立ってきた。
でも、まだトモミみたいな友達はいないから、それを誰かに話すわけにもいかない。
結局、あたしはどうすることもできずに、その日、ママの帰りを待った。
 ママとは話せないまま夜になった。その日もママは遅くて、あたしは先に寝ることにした。でも頭の中がぐるぐるしていて、ちっとも眠くならない。
 もう明け方になってから、ぐうっと眠った。アラームが起きる時間を告げても、身体が言うことをきかない。どうにかこうにか起き上がって、キッチンに行くと、ママのボイスメールがあって、今日、パパという人と会う時間と場所が入っていた。
 ママに話しかけようと思ったけれど、ママはぐっすり眠っていた。しょうがない。覚悟を決めよう。お弁当は作ることができなかったっし、朝からヘトヘトっていう感じだった。やっとこ学校に行った。一日、気もそぞろだった。

一日通学校に通うことがこんなにも重労働みたいになるなんて! 通学校を出るころになっても、まだお腹の中にフツフツとママに対する怒りの塊が残っていた。
中央公園通学校のある公園を出たところに、深緑色のジープが止まっていた。そこが待ち合わせ場所。そのジープの窓からママが手を振った。まったく、いい気なものだ。あたしは知らん顔して通りすぎてやろうか、と思った。
あたしの顔はふくれ面だった。と、運転席に座っていた男の人が出てきて、あたしにあいさつした。ごっついジープだったからごっつい人が出てくるのかと思ったけど、細い、優しそうな目をした人が出てきて、男の人というよりは中性的な感じだった。
そして、「ヒトミ シンタロウと言います」と手を差し出した。
あたしは、心臓が止まるかと思った。「ヒトミって…」。
その人は、ニッコリ笑うと、「さあ、乗って、乗って」と助手席のドアを開けてくれた。
「ねえヒトミ、もしパパと暮らして、パパの名字をもらったら、ヒトミ ヒトミだったね」とママが笑いながら続けた。「今からでももらえるのよ。その名前が良かったらね」
 街には不釣り合いなジープは走り出し、涼やかな風が入ってきた。
「今日はテントでできた個室のあるレストランに行こう。そういうのヒトミちゃんは好きかな?」
「おいしいものが出てくれば、なんだって好きよ。ね、ヒトミ?」
 ママが勝手にあたしの気持ちを言う。また腹が立ってっきて返事をする気になれない。あたしの頭の中は真っ白だった。でも、このシンタロウって人の話を聞いてもいいかなと思い始めていた。その声はすんなりとあたしの心に届くような感じがした。
「おじいちゃんは、元気かな」
 ポツリとあたしが言った。調子のいいママに釘を刺したい気持ちだったのだ。
「元気よ。それに、もうすぐ会えるでしょ」
 あたしが黙っていると、ママはまた勝手に話し始めた。
「ヒトミはおじいちゃんのお家の方に住んでいた方が良かったの?」
「べつに…」
「ママはね、どうしてもあのお家を出たかったの。それは、おじいちゃんを否定するという意味じゃないの。あの場所にいるとね、レッテルを貼られてしまうの。それは、ママには耐えられないことだったの。でもね、レッテルははがれない。出たくて出たくてがむしゃらにいろいろなことやって、ママはやっとそれに気が付いたの。貼られても気にならないようになるしかないんだなって。それがやっとできるようになったのよ」
「そう?」
「ママはうれしい。ヒトミはそんなこと気にせず育ってくれて」
「そう?」
「そうだよ。ママもヒトミを見習わなくちゃ」
「ママ、あたしはただおじいちゃんが好きなだけだよ。それに、空になればいいんだよ。空にはレッテルが貼れないから」
 あたしはぼんやりとアツミさんと話したことを思い出していた。
 ジープの座席は少し高いから、行きかう車を見下ろしているみたいでおもしろかった。
「ね、ヒトミ、こちらのヒトミさんと来月、インドネシアに行くことになったの。お仕事がらみだけどね、ヒトミも行くでしょ?」
 ママがまた勝手なことを言っている。
「一緒に行ってくれるとうれしいな」
 シンタロウさんがこっそり言った。
 返事はしたくなかった。あたしは明日のお弁当のことを考えていた。今朝、持っていけなかったから、その分をお弁当にして、おじいちゃんの分も作って持っていこう。冷蔵庫に残しておいたって、ママは食べやしないから、たくさん作って持っていこう。だって、自分で作れる小さいことしか想像できないし、どうせあたしの思った通りにはいかないのだもの。そのほかのことは、考えたってしょうがない。
 今はただ、ジープの外の景色と、これから行くレストランのことを楽しみにしよう。

ジープ.jpg


(おしまい)




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